三陸と男鹿半島の旅①
皆さんこんにちは。コロナで落ち着かない日々が続いていますね。そんな中ですが、今回私は三陸と秋田に行ってきました。三陸は東日本大震災10年をむかえる前に、被災地をゆっくり見ておきたかったため、男鹿半島はJリーグの遠征と絡めるのが難しいため、この機会にということで初めて訪れました。
初日、一ノ関から猊鼻渓を経て気仙沼へ
一ノ関まで新幹線で向かい、さっそくレンタカーを借ります。一ノ関といえば世界遺産中尊寺がすぐの場所ですが、今回は見学をせず、三陸方面に車を走らせます。まず向かったのは猊鼻渓(げいびけい)。国の史蹟名勝天然記念物で、日本百景のひとつに数えられています。
30分ほどかけて川を上ります。往復とも船頭さんの人力のみです。話もなかなか面白い。
猊鼻渓を代表する景色です。ここが船着き場。そこからしばらく歩くと見えてくるのが大猊鼻岩。
この先ではうん玉投げにチャレンジ。残念ながら入らず。。
合計約1時間半の船旅でしたがゆったりと楽しく過ごせました。船頭さん、ありがとう!
そういえばちょうどこの猊鼻渓で船をおりた時間帯に、線路をポケモントレインが走りました。
ここから車で1時間、宮城県の気仙沼に到着です。到着してさっそくお昼。港町気仙沼は、サメの水揚げ日本一で知られます。日本の水揚げの8割以上がこの町です。ということでお昼もこんなものも。
ふかひれのお寿司と「もうかの星」(モウカザメの心臓)です。もうかの星はレバ刺しのような食感ですね。美味でした!
震災地、気仙沼
2011年3月11日の東日本大震災では三陸の街々を大きな津波が襲いました。この気仙沼でも20mを越える津波によって1000名以上の犠牲者が出ています。サメの博物館であるシャークミュージアムでもその時の写真やビデオなど、多くの展示で当時の惨状を紹介しています。
気仙沼の中心部から車で20分ほど走ったところの気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館は当時、気仙沼向洋高校の校舎でした。校舎は当時のままを残しており、津波の凄まじさを今に伝えています。
建物の中は当時のままを再現しています。
津波で学校の3階部分に車が乗りあげてしまいました。
震災の時には4階の高さまで津波が押し寄せました。
校舎の4階部分に冷凍工場が激突したそうです。そのあとが残っています。
津波の威力のすごさを感じる場所ですが、実はここでは一人の犠牲者も出ていないそうです。生徒は全員避難場所まで移動して、一部の先生・工事関係者は屋上に逃げて難を逃れました。備えることの大切さを改めて教えてくれる事柄だと思います。
南三陸町、そして陸前高田へ
この日の宿泊は南三陸町のホテル観洋さん。海が目の前の旅館です。部屋のベランダにはカモメ?たちがやってきます。
夕食は南三陸の海の幸!三陸は津波によって大きな被害を受けましたが、多くの人が海とともに生きるという道を選んでいるようです。海の幸、ありがたいですね。
夏の三陸の味覚、ウニ、ほや、他にもたくさん!
そして翌朝、ホテルの部屋からは美しい日の出の光景が。
朝食後、ホテルが企画している語り部バスに参加。ホテルの従業員の方がガイドとなり、震災当時の様子を交えながらまだ復興途中の南三陸の町を案内してくれます。最初に訪れたのが戸倉地区。海のすぐ近くにあった戸倉小学校ではとっさの判断で高台に逃げたことで全員の命が助かり、一方元々高台にあり行政の指定する避難場所にもなっていた戸倉中学校は予想以上の高い津波によって逃げ遅れた人が出てしまい、犠牲者が出たそうです。ガイドをしていただいた方は、行政の指示を鵜呑みにせず、自分で考えて行動することの大切さを話されていました。
その次に向かったのは志津川地区。ここの南三陸防災対策庁舎では危機管理課の女性が繰り返し避難を呼びかけましたが、津波に飲まれ命を失ったことでも知らせています。この呼びかけ、実は彼女の上司にあたる男性も行い、同じように命をなくしたそうです。最後に備えることの大切さ、そしてこれを伝えることの大切さをお話しされていました。
一度ホテルに戻った後、再度防災対策庁舎跡と隣接する震災復興祈念公園を再度訪れ、そこでたまたま地元のテレビ局の方のインタビューを受けました。その方はコロナ禍の中で震災の記憶がさらに遠くにおいていかれていくことを危惧されていました。テレビなどの映像でみるものと、現場で感じる空気感は全く違います。来年震災から10年をむかえるこのタイミングで訪れることが出来てよかったと思います。
南三陸を後にし、北へ1時間半。岩手県の陸前高田に向かいます。ここは「奇跡の一本松」で知られるところです。津波で周辺の家々がほぼなくなってしまい、本当にな何もない状態だったんだろうな、ということを今でも感じます。今回の被災地めぐりはこれで終わりになりますが、またいずれ訪問してみようと思います。 次回に続く