東京散歩~偉人たちに会いに行こう!後編。
青山霊園
前回と同じく、東京散歩「偉人たちに会いに」、墓参りシリーズです。
そのうち、いろんな墓を参るだろうがまずは有名な偉人たちが集まっている「青山霊園」へ。
有楽町線護国寺駅から永田町にて半蔵門線に乗り換え、青山一丁目駅から徒歩しばらくです。
青山霊園と言えば、この怪談。
タクシーの運転手が青山霊園にて女性を拾い、運転するもふと後部座席を見てみると、女性が消えていた。するとシートがグッショリ濡れていて…
あと、青山霊園にあるらしいこの標識。「その他注意」で、幽霊注意の意味だとか。
いや、無かったのだが…?
なんやかんやで小径を通ると、青山霊園の入口へ。そんな暗くないうちで良かった。暗いと怖、いや見にくくなりますからね。
まず手前にあった、乃木将軍のお墓。
乃木希典(のぎまれすけ)
青山霊園近くの乃木神社でも祀られており、乃木坂という地名は現在はアイドルユニットで有名ですね。そんな現代日本のサブカル、アイドル界にも影響を与えた乃木希典について、ちょっと詳しく描いてみます。
長州藩出身。指揮官として立ったのは明治時代の士族の反乱の鎮圧で、福岡秋月の乱では反乱軍に与した弟を失い、さらに弟子の多くが反乱軍に参加したとして兵学の師であった玉木文之進がその責任により自刃している。
また、西郷隆盛の西南戦争では主力の出発が遅れ強行軍を重ねたため乃木連隊は200名、薩摩反乱軍は400名で寡兵をもって3時間持ちこたえるも、軍旗を奪われ反乱軍に挑発される失態を負う。戦後乃木は自責の念から自決を図ろうとするが児玉源太郎に阻止された。
乃木はいわゆる闇落ちし、料亭などで豪遊する放蕩生活を送る。静子との結婚式も料理茶屋の帰りで遅刻したほど荒れていた。若さゆえの過ち。
そして、乃木の名を世界中に轟かせたのは日露戦争。旅順要塞攻囲戦である。
乃木は以前、ドイツ留学にて日本陸軍の骨格をつくったメッケルの師・モルトケの紹介でデュフェーに学ぶ。それにより、乃木は軍人の規律についての論文を提出。乃木はそれを体現するように放蕩生活を一切やめ、ふだんは質素で人前には常に立派な軍人であるべく一糸乱れぬ軍服を着るようになる。
日露戦争は簡単に言えば、旅順要塞というロシアの東方の拠点を陥落させたあと、ロシアがバルチック艦隊をはるかペテルブルグ(モスクワの近く・ヨーロッパにあり)から東のウラジオストックに赴くのを壊滅させる日本海海戦で終わる。この重大な戦局の舞台に乃木は主役級となった。
旅順要塞総攻撃と同時に乃木は決死隊「白襷隊」を結成し何度も突撃。乃木は「犠牲を抑えながら正攻法を繰り返すことで陥落する」と主張したが、コンクリート製で機関銃を配備した旅順要塞は難攻不落で多くの犠牲を出し「乃木更迭論」が軍内に囁かれ、国民も怒りから乃木の家に投石する、乃木の辞職や切腹を求める手紙が2400通も政府に送られるなどの事件も起きる。海軍などの越権命令で指揮網が混乱したり、203高地を主力地にするかなどでも命令が混乱する。
乃木は以前の南山の戦いで長男の勝典、そして旅順の戦いで次男の保典も失った。白襷隊に参加する兵士の多くは乃木の人格に命を捧げた人々だと言われる。
司馬遼太郎の小説では、ここで児玉源太郎が指揮をとり203高地を攻略したとあるが、それを裏付ける一次資料は存在しない。乃木の執拗な攻撃ですでに旅順要塞の弱体化が進んでいたと思われる。
乃木は「祖国のために戦った武人の名誉を守るよう」明治天皇の命令を受け、ステッセルたちを敬意をこめて対応した。従軍記者から再三の写真を要求されたが、「後々まで恥を残すような写真は日本の武士道が許さぬ」と1枚しか許可しなかった。
戦後、明治天皇は乃木に学習院院長に命令、「自身の子を失った分、生徒らを自分の子と思い育てるように」と言い、乃木も厳格ながらも生徒たちと寝食をともにしながら細かく教育し、学習院生徒は「うちのおやじ」と敬愛した。このような乃木式教育に反発する生徒もおり、彼らは白樺派を結成。
昭和天皇も乃木の教育を受け人格に大きな影響を受けた。
乃木は明治天皇崩御の際、殉死している。
モルトケは平和を「永遠の平和など夢に過ぎない。しかも決して美しくない夢である。戦争は神の世界秩序の一環である。」と唱えた。戦争を無条件に批判する今の日本の御花畑思想を、お空から唾棄する思いで見ているだろう。しかし同時に「戦争は勝利しても自国民には一種の不幸である」とも言っている。これも事実であると思う。
僕は、あらためて撮影した写真を見て、腐りゆくクソッタレな自民党政治を唾棄する思いで小汚い部屋でこの記事を書きながら乃木将軍を通して戦争と平和を足りない頭でちょっと考えてみた。
乃木将軍も、あの世で子供たちと仲良く過ごしていることだろう。どうか今の子どもたちをニコニコしながら見守っていてほしい。
青山霊園を歩きます(野津道貫)
厳かな雰囲気、初夏ですが木々がざわめく風の音に涼しさを感じ。春になると桜の名所となります。
亡くなった先人たちもにぎやかに、参拝する人たちを出迎えているようにも思えます。
明治の軍人は、司馬遼太郎の「坂の上の雲」で秋山好古・真之兄弟も有名ですが、野津鎮雄と野津道貫の兄弟もいます(鎮雄は1880年に急逝)。
日露戦争の総司令官に大山巌が就いたとき、山縣有朋が「野津道貫の方が良いのでは」と問うたところ大山も「戦なら七次どん(野津)が良かろう」と答えさせた、薩摩藩出身の猛将です。
小村壽太郎(寿太郎)
日露戦争時の外務大臣で、日本に関税自主権を回復させ、陸奥宗光とともに不平等条約を改正させ欧米列強と対等にさせた立役者です。
アジアの小国で外国からサルのように見られていた日本。
小村により日英同盟が結ばれ、日露戦争もイギリスとの協力でロシアを追い詰めた。バルチック艦隊はヨーロッパ側のペテルブルグ近くのバルト海にある。そこから日本まで地球を7か月かけて半周してきたが、補給で港に立ち寄ることを、世界の4分の1を植民地にしているイギリスが妨害したうえ、その動向はイギリスから逐一日本に報告された。
さらに第一次世界大戦で日本はイギリスに協力し、その貢献もあり日本は戦後、国際連盟の常任理事国入りをイギリスの推挙で果たしている。
アジアの小国から、世界のリーダーシップをとったのだ。
その小村閣下も、日露戦争の講和条約では賠償金を取ることができず。
無理強いしてまた開戦となると日本は勝てる見込みはない。
しかし、民衆は怒り狂い、小村の家を襲撃したり、小村に切腹を求める手紙なども送られる。外相官邸が襲撃され小村一家が惨殺された、という噂が流れたぐらいである。また、直後に日比谷焼き討ち事件という死者17名検挙者2000名、東京に戒厳令が敷かれるという大暴動も起き、それは横浜や神戸にも広がった。
小村は故郷の宮崎の学校にて伝説の1分訓話を行う。「諸君は正直であれ。正直というのは何より大切である。」とだけ語った。
今の与党と野党の政治家よ。君たちは正直であるのか。嘘は人を捻じ曲げて、あらぬ方向に向かわせるものだ。政治家は嘘が必要という考えもあるが、国民の信用が得られていると思うのか。国民を騙す傲慢さに満ちているのではないか。国民は君たちをちゃんと見ている。
大久保利通
そして、今回最も僕が会いたかった偉人。
ああ、閣下。大久保卿… 福地源一郎のいう「渾身これ政治家」。
全身全霊を新しい国家づくりに捧げ、断固とした国家の姿を計画し、たとえ人に嫌われようと、親友の西郷と対立しようと、事の成立を進めた人物。
ちょっとwikiで確認せず感情のまま書くので乃木将軍のように詳しく語れませんが、要するに明治維新の政策は尽く大久保卿によるもの。
親友であり幼馴染の西郷が鹿児島で反乱「西南戦争」を起こしたときも、鬼や修羅の気持ちで冷酷に鎮圧しました。
しかし、西郷の死を聞いた日、大久保卿は自宅にて泣きわめきながらグルグル歩き、鴨居に頭をガンガンぶつけながら、「おはんの死により、新しか日本が生まれる、強か日本が…」とつぶやいたよう。
最期は不満を持った石川県士族島田一郎らにより、紀尾井坂の変で斬殺されます。
馬車にて、大久保卿は西郷の手紙を読んでいた時に襲撃されたようです。
襲撃後の大久保卿は全16か所かの刀傷があり、うち8か所が頭部。島田一郎らは遺体に一礼しすぐに出頭したようですが、ひどいですね。
彼らは士族なので、言論でなく武力による排除を行いましたが、まさか今の、現代の世で暗殺による排除を行った事件が起きようとは。
安倍晋三・元総理を暗殺した山上徹也を、民主主義を守るべきわたしたちは決して許してはいけない。
(ふだん民主主義を主張する反安倍勢力が、暗殺を行った山上を讃えている気持ち悪さよ。お前たちに正直さや日本人の美徳なんて無いのだろうな。切腹しろとか言うわけないが、常に心に恥の精神を持ってほしい。)
安倍晋三・元総理暗殺事件から1年経とうとしています。あのショッキングな事件を経て、立て直しを図るどころか与党自民党は一気に腐敗してきているようです。ニュースを見ても、腐臭しか感じない。与党だけでなく野党もだ。政治家はみんな一部の利権と税金を吸い取るだけの装置に成り下がっているようです。
大久保卿、国民から、さらに故郷の鹿児島からも「西郷を倒した裏切りもの」として恨まれながらも、政治を全うしようとした偉人。
暗殺当日は、客人に対して「明治を30年で育てる計、初め10年で創業と反乱、次の10年で内治と建設、最後の10年で後進に譲る」を唱え、その直後に討たれました。死後の大久保卿の財産は140円ですが(当時は1円=数万円)、借金が8000円。これらは国家建設のための費用に私財を投じていたようです。
紀尾井坂を目指します
さて、青山霊園以後の目的ができました。この旅の最後を大久保卿の聖地巡礼で閉じます。まずその前に、もう少し何人かに会いに行きましょう。
その他偉人の墓
国民所得倍増計画を掲げ、高度経済成長期を牽引した池田勇人・元首相の墓です。
大正13年に、米国大使館横で、アメリカによる「排日移民法」に抗議して自刃した無名の日本人を弔った「嗚呼無名烈士の墓」です。
排日移民法は、のちの満州事変や日米戦争の大きなきっかけにつながります。
ずっと奥、乃木坂方面に向かいます。
途中、森永製菓の創業者・森永太一郎のお墓があります。
もう1つの目当ての北里柴三郎先生の墓です。
来年の千円札! もとい、ペスト菌や破傷風の治療法の発見や予防接種を広めるなど日本に伝染病の概念を浸透させ、伝染病研究所で後進の教育も務めた日本医学界の巨人。ちなみに第1回ノーベル賞の候補者でしたが、なぜか北里と共同で論文を書いたドイツ人の方が受賞しました。
新宿の上空に飛行機が飛ぶようになりました。
北里先生の墓の近くに、日本の騎兵の父で日露戦争にてコサック騎兵を打ち破った秋山好古の墓があります。「秋山好古の生涯は、満州の野(日露戦争)において世界最強の騎馬隊(コサック騎兵)を打ち破るという一点に尽きる」と常に口にし、実行しました。
弟であり海軍参謀としてバルチック艦隊を破った真之の墓は鎌倉のようです。「坂の上の雲」などの司馬遼太郎の功績は、賛否あれど、秋山兄弟などをドラマティック(フィクションや司馬史観と言われる偏った見方もあるが)に国民に紹介したことが大きいだろう。
乃木坂、赤坂、紀尾井坂
さて、ここから青山霊園を抜け、近くの乃木坂駅に向かいます。
目的地は赤坂駅から、紀尾井坂に向かうため。
赤坂駅から地上に登ろうとすると、テレビ局tbsの存在感が。
(国賊tbsという以下の僕個人の意見は無視してください。
僕の中でテロリスト団体となったオウム真理教の事件の1つ・坂本弁護士殺人事件におけるtbsのビデオテープをオウム真理教に渡した行動は、筑紫哲也が自身の報道番組で「tbsは死んだ」と言ったときに、終了したと思っています。(筑紫哲也も辻元清美に立候補を勧めた時点で国賊と言えますが。辻元がいろんなテロリストなどやばい団体に繋がっているのを知っていますので。)
というのが言い過ぎだとしても、そこからいろんな報道事故を繰り返し、深く反省する態度をとらないtbsよ。あと杉尾ry
国賊tbsが、政治の中心地である赤坂にて威張っているのがムカつきます。)
まあ、何にしても、テレビは最近観てもつまらないですね。テレビをずっと観ていたうちの両親もそれは言ってます。テレビ観ながらですが。
tbsと赤坂とハリーポッター(くわしくないため特にコメントなし)
けど、僕の中でラブコメの名作「僕の心のヤバイやつ」で出てきた「王様のブランチ」は、便乗して僕ヤバを特集していたり。コラボとかしていたら、何か買ってやらんでもないと思ってみてショップをのぞいてみました。
無い。もはや興味ない。去る。
(※僕ヤバのアニメはテレビ朝日系列です)
赤坂から紀尾井坂へ
赤坂見附駅を通過すると、紀尾井坂の近くになります。
大久保利通暗殺現場
紀尾井坂の手前。ここが大久保卿が襲撃された場所みたいです。
そのすぐ先の清水谷公園に、大久保卿の哀悼碑があります。
墓でもちょっと泣いてしまったが、大久保卿ら偉人たちと、欧米列強の帝国主義の中で戦った明治の日本。そして今の国際情勢における日本を思ってしまいます。まあ、僕なんか何もできないし、何もしないと思うのだけれども。
四ツ谷へ
清水谷公園をやや上ると、いわゆる今の紀尾井坂の下に。上っていくと、だんだんと四ツ谷駅に向かいます。
すぐに目の前は赤坂御所。この裏側は、以前新宿のホラースポットを紹介したときに描いた江戸~明治大正のスラム街「鮫河橋」があります。
そしてその先がもう1つのホラースポット「信濃町」で某宗教団体の本部ですね。
統一教会の利権にしがみつく議員を非難するのなら、某政党になぜマスコミはダンマリなのか。所詮、議員やマスコミも、「人のため<お金のため」なのでしょうね。世の中には、人のためと自分の恥のために自決した人もいたというのに。
歴史を学びながら、もっと世の中のことを知りたいものです。
ああ、博物館や郷土資料館に行きたい。
と思ってたところに、四ツ谷駅にいろんな歴史の展示パネルがありました。うれしい!!
秋葉原は、昔の万世橋を残そうとしています。また行きたいところ。
完。また、お墓にて偉人に出会いましたら、まとめてみたいと思います。