農業を捨てた民の宿命1
現代人では食料生産能力のある人の割合が少なくなっている。これは都市住民の人口に占める割合が増加したことと関連している。さらに製造業者もその割合が減少しているようだ。このことは現代社会に決定的なストレスをもたらしていると考えられる。
この国では第三次産業従事者の比率が極端に多く偏ってきている。70~80%もいるのではないだろうか。
そのことと関連があるかどうかは実証できていないが、人間関係において過敏な人が多くなっているように思える。
自分が他者からどう見られているのか、確かめないと不安になる。
また自己のプロフィールに関わる出来事にも異常に過敏である。
こういった社会的な不安や情動の応答の不安定さは何がもたらしているのであろうか。このことと少子化が関連しているかについては研究データがさらに必要だと思う。
私は少子化と都市住民化とサービス業化は連動してきているのではないかとの仮説のもとに理論の構築を試みている。
人間関係過敏やプロフィール過敏もそのストレス応答の一種かどうか興味をもっている。
昔釈迦が人間の苦悩の元は「自己の苦悩の元(メカニズム)に気付かず、またそれを内省的に心の隅々を見渡すことがなく、他人と自分を比べて競い合う中で欲望を追い続けるとき人は煩悩に支配されてしまう」と説いていた。
これは当時すでにインドにも都市化が部分的に生じていて農業者以外に様々な職業人が生まれていた中で人の悩みも多様化して様々なトラブルがあったことを反映しているのだろう。
私を含め多くの現代人は食料を自己調達できていない。カネで買うものだと生来考えている。
従って生きていくには、都市住民として成り立たねばならない。
都市コミュニティではどうもプロフィールに関する属性がヒトを支配しがちである。
これは今に始まったことではなく2000年以上前の大河文明社会でもすでにそうだった。
ヒトの価値はプロフィールではないと認識しながらも、プロフィールを意識しすぎていてそこから離れて自己と他者を観察することが下手である。
サービス業者が多ければそれだけ格付け依存症になりがちだ。
得体の知れない信用価値という幽霊にも支配される。
現実と情報が乖離してくる。
ヒトなど実物に接してみなければわからない。だが現代人はそれを過剰に忌避したり恐れたりしがちである。
なぜか?プロフィールや人間関係の維持に過剰に敏感なため、ころあい、均衡を感得しあうことに習熟しておらず、「かまってちゃん」が増えてしまうのであろう。
私は自分の都市住民としての経歴などどうでもいいと思っているが、皆様はいかがか?
むしろ食料自給できる人間でありたいとは思うがとても大変なことである。だから食料生産者、生産国の人々に感謝して暮らしている。
アリとキリギリスの寓話を時々思い出してみよう。
日本人がキリギリス国家人になりきってしまい、本当の意味での生産を忘れ、「必要ならばカネを刷ればいいじゃないか。」という発想のもとで怪しげな信用価値を生み出すことのみに専念するようでは、どこかで経済破綻しなければならない。
本当のproductsは第一次産業と二次産業の合計であるはずだ。
これからはいつまで日本人がキリギリスをやっていられるのか?問われる正念場がやってくるだろう。
様々なことを我々都市住民は自己点検していかなければならなくなるはずだ。