地獄への道は善意で舗装されている
とあるラーメン店の取引先に、嘘の噂を流して信用を落とし
出店計画に損害を与えておきながら
「取引先への善意でした」「悪気じゃない、謝りたい」
と答えたという、業務妨害のニュース。
ここまで悪意や攻撃性があるものは論外として
この思考回路はよく見かけるな、と思いました。
見せかけの善意に、自分の欲望や悪意をくるみ
コントロールしようという、考え方。
「あなたのため思って」なんて典型ではないかと思います。
あなたのことは、あなたが決める。
私のことは、私が決める。
コントロールはしないしされない。そうありたいです。
最近お友達になった方の表現では
「隣の家の晩御飯に口を出すようなこと」
この場面で考えるとさらに面白く、よくわかりますねぇ。
こうした侵害者は、「言葉でなく行動を見ればわかる」
と思ってきましたが、それをよく表す言葉を最近教えてもらいました。
ヨーロッパのことわざで
「地獄への道は善意で舗装されている」
という言葉。
悪事または悪意は、善意によって隠されているものだ、の意。
言い得て妙。
それに加え、人をコントロールする発想自体が
どこからくるのかについても考えてみました。
「人と自分の境界があいまいだから」ではないのかな、
が今のところの仮説です。
相手が何をするか、どう感じるかは相手のものなのに
自分もそこに参加して、例えば感じ方をコントロールできると
思っているのではないか、と。
そう書くと、ありえない感じがするものの、
「忖度」は美徳や人間性のよさと評価されることも珍しくないもの。
気を利かせたり、相手を思ってしたことがドはまりしたとき
「この人は思いやりがある、人格が優れている」
とされる、忖度社会に生きる私たち。
その慮り度が高すぎると、このように悪い意味で
人の行動や感情に干渉してしまうのかなと思ったりしています。
自分の世界を侵害させない。
人の世界も邪魔しない。
人と自分の自由を大切にしたいな。