構図周遊
交差する視線
上下の膨張
水平線と水の流れ
日の丸構図
斜めの重なり
sigma fp
Leica summicron-R50mm
何気なく撮るのではなく、何気なく感じる構図的感覚を大事にしてみる。
こういった写真は、都市部や大自然がベストな環境だと思う。
スティーブン・ショアは言うまでもなく、偶然の中の本能的な構図への嗅覚をクンクンさせる場とは、都市部や大自然なのだ。
だが、これをド田舎で狙ってみる。
なにもないからこそ、カオスであり視点が霧消してしまう、それがド田舎。
ド田舎の写真とは、ド田舎というイメージ以外の記号的な消費をする労力を使ってもらいにくい。
それが「なにもない」なのだ。
「なにかある」からこそ、構図のようなシンプルな造形美を際立たせることができるのであり、「なにもない」とはそこまでの深みに達するまでもなく消え去るイメージでしかない。
「なにもない」ことは「なにもない」ことを強調することで、「なにもない」が「なにもないという存在」になることができるという大いなる矛盾がある。
このイメージから発する記号的なエネルギーを教科書的に振り分けることこそが、その景色のベストな振る舞いになる。
それを破壊する。
今回の写真は、「なにもない」からこそ「なにもない」という壁に大穴を開けてその先を指差す、そんな写真にしたかった。
それにしても、テキストがないと僕の技量では難しい作業だ。
スティーブン・ショアの写真は、テキスト無しでもこの視点を万人に意識させることができる。アメリカ人でなくても、アメリカの田舎町の交差点の写真でそれを意識させることができるのだ。
この記号的なイメージ想起の演出を、写真だけで何気なく自然な形で提示するのがスティーブン・ショアの凄みでもある。
しかし、この写真を得るためにはかなり頭が痛くなる撮影になってしまう。
しかも単焦点レンズだと尚更、ただ絞れば良いというわけでもなく、それでいて撮って出しで完了させようとなると頭痛がしてくるのだ。
この「なにもない」先への誘導というのが、写真という媒体の面白さでもあり、そして多くの人間を苦しめる業でもあるのだ。