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SIGMA fp 動画と写真の狭間で
SIGMA fpといえば、動画と写真をいわゆるシームレスに行き来できる、しかも手に収まるサイズで、というカメラであると思われていよう。
左様、まさしくfpはビデオでもカメラでもない、だがビデオでありカメラでもある、しかしスマホのように合理的配慮は持たず、それでいて世界と身体の関係性を繋ぐ道具ではある。
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時間、それは流れ、止まり、逆行したり、幻覚だったり、機械的で、法的拘束力もあれば、胡蝶の夢だったりする。
人々は映像の発見以来、それをあの手この手で表現してきた。
そして表現することで、時間とは何かを考えてきた。ハイデガーやウィトゲンシュタインも時間が時間として普遍的に認識されてきたからこそ、時間を時間として捕らえたのであろう。
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かくいう時間は、近代以前の人類にとっては普遍性の欠片もないカオスであり、そしてカオスであることが普遍的な時間像だった。
江戸時代の百姓の時間は、アマゾンの密林で暮らす名もなき人々とは圧倒的に違い、中華の皇帝にとってそんなことはどうでもよく、コロンブスは「発見」された人々との認識の違いに慄いたことだろう。
fpの動画と写真の境界のまどろみを指先でひとつで変えてしまう行いは、そういった当然とされた時間的感覚の認知以前の瞬間をふと嗅ぎ取ることができる。
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もちろん、動画も写真も撮れるカメラは掃いて捨てるほどある。
fpはそれがより顕著であり、そして曖昧である。
世界との対峙の瞬間に嗅ぎ取った時間の感覚に身体性が宿る、それがfpのデザインであると思う。
時間以前の時間の「発見」、それは本質的な歪まされる以前の時間であり、それを現代のカメラで撮れるというのが僕がfpを愛する理由である。
「その」時間は幾重にも連なるフィルターに濾し取られる前に、ふと目の前に現れる。
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それは美しくもなく、また共感されるものでもなく、しかしそこにある。
これを撮るには、動機づけを排した、意味や価値や目的を除いた、身体性の反射のような感覚が必要である。
故に、まず今あるとされている時間ではない時間的感覚に立ち入らなければならない。
そこにfpは何気なく立たせてくれる。
デザインとはかくあるものかと考えさせられる。
時間を撮るカメラ、それがSIGMA fp。
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