海とLeica summicron-R50mm
Leica summicron-R50mmはコントラストも色彩もこってり
開放にしても、こってり
もちろん撮って出しでこれ
いろいろレンズを持っているが、これが一番好きなのである
こってりながら、無様な「潰れ」はない
モノクロにしてもそう
Leicaらしい端正な写り、でもこってり
しかしこの絶妙なこってりは、summicron-M50mmだとそうはいかない
なぜなのか!Leica-Rよ!
ともかく、最高なレンズであるのは言うまでもない。
このレンズでしか撮れない景色はないが、このレンズだから撮りたい景色はある。
Leicaの良いところは、この手段と目的がひっくり返るところだろう。
「Aを撮りたいから」
ではなく、「Leicaレンズで撮りたいから」になる。
もちろん、目の前の景色を情報として記録しようとすれば、国産レンズが良いのは言うまでもない。
家族の記念写真、子供の運動会、有名な観光地、著名な絶景(矛盾しているが)・・・
このようなある程度の「枠」が決まっているとされている景色は、国産レンズが「枠」にはまるようにきっちり歪みなく正確なAFで撮ってくれる。
Leicaレンズはどうだろうか?
それは味である。味でしかない。
だが、だからこそLeicaレンズは目的になり得る。
「桜を撮りたいから、カメラを持っていこう」ではなく、「Leicaで桜を撮ったらどうなるんだろう?」
両者の結果はただ写真を撮るだけだが、その過程の意味は全くもって違ってくる。
では、そこに何があるのか?
それは、Leicaレンズを手にしないとわからない。
ちなみに、ボディはSIGMAfpです。
正直なところ、僕の経済状況だとLeicaはレンズを買うだけで限界。
(デジ)Leicaが必要かどうかはさておき、SIGMAfpはLeicaレンズに最適な非Leicaカメラの一つ。
SIGMAfpこそバルナックライカ時代のLeicaの思想を体現したカメラだと思うのである。
ミラーレスカメラが超弩級化していく時代において、SIGMAfpという可能性が僅かであるが生まれたということに僕は国産カメラに光明を見出すことができたのである。
「撮る」という行為、それは「撮る」でしかないはずだった。
「撮る」を追求した結果、行為はテクノロジーで排斥されたのだ。
行為はいつしか「撮る」ために邪魔になったのだ。
この転換点をうっすらと感じ取った人間は、SIGMAfpに惹かれてしまう。