
私の好きなデ・ニーロはグッドフェローズのジミー・コンウェイ
#私の好きなデ・ニーロ ということで、僕の好きなデ・ニーロはグッドフェローズのジミー・コンウェイ。
デ・ニーロといえば、ミーン・ストリートのやんちゃボーイからタクシー・ドライバーの狂気の狭間、そして銃をしつこくぶっ放したり、ベトナム人に殴られたり、太ったり痩せたり、焼かれたり、アヘンでニヤニヤしたり・・・
デ・ニーロは憑依型俳優というより、役をデ・ニーロ色に染め上げるという俳優だと思う。
俳優はなんだかんだ言って顔だ。イケメンとかそういう意味ではなく、顔の味である。なぜなら人間は言語より表情をコミュニケーションの核においている。
デ・ニーロは、表情がうまい。
役になりきるというのは、表情にキャラクターが自然と滲み出ないといけない。
ゴッドファーザーの若きビトー・コルレオーネは特に顕著だ。
あの完璧を超えたマーロン・ブランドのビトー・コルレオーネ、その若き姿を演じるデ・ニーロは並の俳優であれば(妥協して)マーロン・ブランドのモノマネになってしまいそうなプレッシャーを跳ね除け、まだ若さが残る「マーロン・ブランドが演じたビトー・コルレオーネ」を演じきった。
若きビトー・コルレオーネは少しゆるいのだ。若気の至りと大佐にボヤかれそうなくらいゆるいのだ。
かといってバカではない。ゴッドファーザーへの階段を登り行く若きビトー・コルレオーネの顔なのである。
そんなデ・ニーロの表情芸の極めつけが、グッドフェローズのジミーである。
グッドフェローズは、一人の若者がチンピラからマフィアの幹部にまで出世し、そして没落していくというスコセッシムービーの代表作。
数十年の長い歴史を演じきる必要がある。これはアイリッシュマンと同じ構図だ。
グッドフェローズはイケイケなマフィアが時代に追いつかれて没落していくさまを描き、アイリッシュマンは時代に置いていかれたことを認めたがらない男たちの悲哀を描いている。
グッドフェローズのジミーは、若き主人公が最初に憧れるマフィア。ちなみにアイリッシュ系だ。
殺人、強盗、ハイジャック、何でもこざれの大悪党。
そんなジミーを数十年演じきるデ・ニーロの演技は、言葉を失わざるを得ない。
ここからはその演技を動画で見ながら解説していこう。
若きジミーは血の気の多いイケイケマフィア。
儲けた金を仲間にバラマキ、紳士ジミーなんて呼ばれている。
まさに憧れのアウトサイダー、そんな若きジミーはとにかく切れるほどかっこいい。そして野性的な暴力性を身に纏っている。
そして調子にも乗っている。この調子に乗った感じの演技が素晴らしい。
このときのジミーは30そこそこ、アイリッシュ系にもかかわらず、イタリアマフィアの中でも一目置かれ幹部連中からも認められた存在だ。
そんなジミーは金を豪快に配りながら威勢を放っている。はち切れんばかりのエネルギーを、小刻みにリズムに乗りながら博打に興じる姿だけで醸し出しているデ・ニーロ、やべえ。
時代は進み、ジミーはある悪事を働き大儲けする。
しかし、その悪事の共犯者たちがまさに短絡的な人間ばかり。
儲けた金で豪遊し始める。
50前後のジミーは、すでに若さゆえの無軌道な承認欲求を求めることはなく、純粋な悪に染まっている。
このときのジミーはとにかく冷徹だ。粗暴さよりも、シンプルなリアリストに変わっている。
デ・ニーロの演技の真骨頂は、儲けの配分を巡って敵対しているある男を殺すか殺さないか判断するその刹那を表情だけで演じている。
CREAMの「sunshine of your love」を使うところがスコセッシの狂気なのだがそれはまた今度にして、見てよこの笑み。
ちなみに説明すると、冒頭の太っちょを殺すか殺さないか思案中だったジミー。
この笑みを浮かべながらタバコをふかすだけで、その答えがわかってしまう。
手前の(こちらもヤバい)トミー(アイリッシュマンにも出てたジョー・ペシ)に笑みを投げかけた瞬間、太っちょの運命は決まってしまった。
そんな怖すぎる狂気のシーンで、タバコ、笑み、「sunshine of your love」、これはデ・ニーロとスコセッシのコンビでしか成し得ない表現の限界を攻めた瞬間であるのだ。
そして最後のジミーは60前後だろうか。
麻薬ビジネスで大儲けしたが、マフィア界での出世を望んでいた弟分のトミーが殺され目的を失ったように老いていくジミー。
※イタリアマフィアではイタリア人(シチリア系)しか幹部になれないため、ジミーはトミー(シチリア系)を幹部に据えようと画策していた。
老いたジミーはかつての凶暴さが失われ、安定を求めて保守的になっていた。
老いたデカメガネのジミーは、主人公ヘンリー(レイ・リオッタ)に自分が警察に売られると疑い、ヘンリーを殺そうとする。
かつてのジミーであれば問答無用にヘンリーを殺したであろう。しかし老いたジミーは、ヘンリー殺害を部下に託す。
このシーンは、ジミーがヘンリーにある人物を殺すように依頼する。ヘンリーは、これが実は自分を殺すための方便だと思い、その後ジミーを本当に売ることになる。
あの完璧だったジミーは、ここで大きなミスを起こしている事に気づいていない。
ジミーは今までヘンリーに殺人を依頼したことはない。よりによってヘンリーがこの時自分が助かるために味方を売るかどうか悩んでいる最中であったにもかかわらず、こんな依頼をしたのであった。
これがきっかけとなり、ヘンリーが身の保身のためにジミーを売る決断をしたのは言うまでもない。
かつてのジミーであれば、予告もなくヘンリーを殺したはずだ。
だが、ジミーは老いた。
その老い、保身、安定志向に陥った臆病なマフィア、その滅びゆくさまをデカメガネで執拗にヘンリーを見つめる演技だけで表現している。
僕はこの時、ジミーが小さく見えた。不安にかられ、活力を失い、身の保身ばかり考える哀れな男。
これはアイリッシュマンにつながる。アイリッシュマンは、このときの老いたジミーが主役だ。
アイリッシュマンの男たちは、この老いたジミーなのだ。
悪事を重ねて築き上げたものは、死ぬまで戦い続け、不安を押しのけて、ピラミッドの上に君臨し続けなければならない。
少しのミスも許されず、仲間どころか家族も信じることができない。
そのすべてが老いとともにのしかかってくる。アイリッシュマンの後半のパートは、この不安に押しつぶされて散っていく男たちの醜悪な姿である。
デ・ニーロはこのすべてを演じきることができるのだ。
表情、後ろ姿、目線、それだけで男たちが背負ってきたすべてを醸し出すことができる。
大げさな演技や説明は一切不要、ただそこにいるだけで良い。
これがデ・ニーロの凄み、狂気の姿なのだ。
ベタ映画が好きです。
いいなと思ったら応援しよう!
