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終戦の日に(エシカル100考、44/100)
終戦の日。知人が演じる坂口安吾の『戦争と一人の女』を観に浅草へ。
黄昏時の浅草寺で、人力車引きのお兄さんに「お二人でどうですか?」と声をかけられるが、当方お一人様。
お二人って誰だ?僕と君か?二人で仲良く乗るのか?引く人いないよ、進まないよ。
いや、お盆だからいるのか?!見えるのか!?やっぱ。。。同行二人?まあ風情があるけど。。。
・・・という、どうでもいいホラーもあった観劇でした。
不思議だったんですよね。なぜ「終戦記念日」なのか。
だって、日本としては敗戦じゃん。終戦とかいって誤魔化してるのってどーよ。ちゃんと“敗北を抱きしめて”(ジョン・ダワー)ないんじゃないの??
どこかで、そう思っていました。
でも今日、『戦争と一人の女』やいくつかの戦時中を舞台とする劇を見てきて、「ああ、やはり終戦でいいんだなぁ、、」という気持ちがふつふつと。
「戦争に勝者はいない、いるのは敗者だけだ」的な視点でいうと、敗戦記念日も戦勝記念日(負けると戦の前に敗がきて、勝つと戦の後ろに勝がくるのね、、)もない。
終戦の日しかない。
というありがちな主張は別として、戦争を空間の戦争ではなく、時間の戦争と考えてみるといいのかなと思う。
空間の戦争とは、要は日本とアメリカとか(フツ族とツチ族とか)、同時期に地理(=空間)を別とする人たち同士の争い。
これだと、戦勝と敗戦が出る。奪い合い。
でも時間の戦争として、戦争をしていた過去と、戦争のない未来の争いと考えてみたら。。。
戦争を終えることは、誰の未来にとってもとりあえずの勝ちであり、でも勝った勝ったと浮かれるものでもないので、表現の仕方は終戦となるんだと思う。
日本とかドイツとかアメリカとか、小さいことはいっていないで、人類として理性をもって戦争をしている過去を止めて、新しい未来を築いていける日。
それを記念するのが、終戦記念日なのかなと思う。
戦争では、さまざまな酷いことが行われてきた(そして、まさに今も行われている)。
人類は残虐な集団行動を行ってしまう種なのかは議論が分かれる。が、戦争のある過去に行わてきた残虐な集団行動を、戦争のない未来に生きる者たちがニュートラルに見据えて、そのような行いはNOだ、と宣言することは、誇り高いことなのではないだろうか。
自国(や、自民族や自集団)がかつて犯した行為に触れられると、拒絶的や攻撃的な反応をとる人は、空間軸にとらわれているのかもしれない。
それだと、いつまでも負けた側(もしくは勝った側)だよ。憎しみの水掛け論。
時間軸でとらえて、みんなで未来をより良くしていこうね、という観点で、かつての行為は人類資産として活かしていけばいい。
そうやって過去に勝って、持続可能な未来を創っていけばいい。
とか思うんだけどさ、脳みそお花畑かね。。
『銀河英雄伝説』が好きだ。
再アニメ化や漫画化が進んでいるが、古いバージョンの長大なアニメ全110話を5回くらい見通している。
スペースオペラ・宇宙戦争のアニメでしょと馬鹿にするなかれ。戦争と平和について、民主主義についての多くが詰まっている、知見の宝庫だと思う(いや、ほんとに)。
終戦の日というが、そして「平成は戦争がなかった時代でした、令和も平和が続くといいです」とかいうが、それは嘘だろう。戦争は今も続いている。空爆におびえる夜を過ごす人がいままさにいる。残忍に身体を切り刻まれて、息絶えようとしている人がいままさにいる。
そんなことを、ヒリヒリとした現実として痛感しながら、そして本当の終戦の日が来るためにできることを考えながら、『銀河英雄伝説』の主役の一人、平和と平凡を求めながら、求めるがゆえに、最高の戦上手になってしまった(そしてテロにより誰にも看取られずに死んだ)ヤン・ウェンリーの台詞を、最後に引用したい。
「恒久平和なんて人類の歴史上なかった。だから私はそんなもののぞみはしない。
だが何十年かの平和でゆたかな時代は存在できた。
吾々がつぎの世代になにか遺産を託さなくてはならないとするなら、やはり平和がいちばんだ。
そして前の世代から手わたされた平和を維持するのは、つぎの世代の責任だ。
それぞれの世代が、のちの世代への責任を忘れないでいれば、結果として長期間の平和が保てるだろう。
忘れれば先人の遺産は食いつぶされ、人類は一から再出発する事になる。まあ、それもいいけどね。」