母の十三回忌延期に伴い、彼女のことを想い出し、書いてみることにした。

去年の夏の事。四国に住んでいる叔父に電話をし、コロナ禍ということもあり、四月に予定されている母の十三回忌を延期したい、と話したところ、「おう、そのほうがエエ。やっても誰も家から出てこんぞォ」と言われた。そりゃそうだ。参列する予定の親戚は、亡くなった母より高齢の者も多い。東京から「法事にやってきましたーっ!」と来られても困るだろうし、私も是非是非ステイホームしていて欲しい。

その旨、寺の御住職に連絡をしたら「はい、延期されたほうがいいと思います」ときっぱり言われた。

延期決定。すまんお袋。

せめてもというわけではないが、年末に彼女の遺品を整理し、想い出し、弔うことにした。最後の最後に私の手元に残ったのは、母の卒業アルバムと膨大な写真。そして家族旅行などの8ミリフィルム(ビデオじゃないよ、フィルムだよ!)。卒業アルバムはすべてモノクロ写真。そんな時代だ。

昭和24年。母は四国の愛媛で生まれた。野菜と一緒に日用品も売る、小さな商店の長女だった。上に秀才の兄がいて、下には手先の器用な弟がいた。母はなにに秀でていたのだろう。そこそこ勉強ができて、そこそこ器用だったはずだが。ただ言えるのは、かなりモテた、らしい。

自分だけが言っている系の武勇伝ではなく、たまに母の実家(今は叔父の家と彼が営む料理屋がある)に遊びに行くと、町を歩く人から「おう、あんたヨーコさんの息子さんか! わしゃあんたのお母さんが好きだったんヨオ!」と声をかけられたりするので、まあ、本当だったんだろう。愛嬌はあるほうだったと思う。だけどまあ、顔はというと、ぶっちゃけ私とよく似ている。私がコントで女装をすると、ほぼほぼ母になる。つまりまあ、推して知るべし。だけどモテたのだから、ううーん、愛嬌なんだろうなあ、と思うのだ。

私は一枚の写真を手にした。母が高校生だった頃の写真だ。

校庭に立つ制服姿の母の姿。いがぐり坊主の少年たちが走り回っているのだろう、ぶれる人影の真ん中で、母はやんわりと笑っている。

だが、笑うその目の奥に「ここでは終わらない」という強い意志が宿っていた。田舎町でモテた自信を頼りに、彼女は都会で何者かになろうとしていた。そしてその通り、彼女は高校卒業後すぐに、既に上京していた兄を頼って東京へ向かったのだ。

彼女は眼前に広がる未来と可能性に胸躍らせていたはずだ。

まさかそれが、めくるめく珍道中の始まりだとは知らずに……。




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