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劇団時代の話その1

映画監督になりたかった。
だから私は、大学で劇団に入った。

いやなんで劇団? そこは映研でしょ?
その通り。だけど、それにはワケがあるのだ……。

私の高校時代、日本の映画界は、業界外から監督を抜擢する、いわゆる異業種監督と呼ばれる方々が活躍されていて、たたき上げの助監督がなかなか映画を撮らせてもらえない、そんな風に言われた時代で、海外では『ジュラシックパーク』の脚本家、マイケル・クライトンが小説家としても成功していて、私は「脚本家として脚光を浴び、映画監督になるのが映画を撮る為の最短距離なのでは?」と閃いたのだ。

ヤバイっすね。

まず、脚本家として脚光を浴びるってのがむっちゃ、もうむっちゃ難しい事に全く気がついていない! 若さ故ではすまされない、無謀な人生設計!
出だしがこれなワケだから、先が思いやられる。

そうして私は大学生活の初日に、映研の部室を訪ねた。
だけどそこは映画を撮影するより、映画を研究したい人があつまる部活で(まあ映画研究会だから間違ってないんだけど)その研究対象はアンドレイ・タルコフスキー監督の『惑星ソラリス』だったりして、

その映画は実態を持たない宇宙知的生命体がバレリーナの格好で宇宙船の周りをクルクルまわったりする前衛映画だったので、私は「あ、ここ、違う」と五分で逃げ出した。


だって私『裸の銃を持つ男』が世の中でいっちゃん好きなアホな子だったから!


『ポリスアカデミー』みたいな映画が撮りたかったから!


宇宙船の周りを回るバレリーナより、俺たちひょうきん族の「さんちゃん寒い」「まわるなまわるな」の方が好みだった、そんなアホな子だった。

だから私は、映画研究会の部室から逃げ出し、その足で演劇部(学生劇団)の勧誘ブースへと向かったのだ。

当時、演劇は勢いがあった。

第三次演劇ブームと言われる時代で、夢の遊眠社、第三舞台、東京サンシャインボーイズ、劇団健康など、クソ面白い劇団が群雄割拠する時代。
ギャグを取り入れた作劇方法で、時代の先端を突っ走っていた。

ギャグ映画が好きだった私は「笑いが好きな俺が脚本家として活躍できるのはもしかしてここなんじゃないか?」って思い、その場で「入ります!」と入部届にサインをした。

これが、大誤算。

サインした後に「ボク、脚本が書きたいんです!」と言ったら先輩は
「一年は役者から。そういう決まり」と言う。

役者……だと? 

やりたくない。だって絶対に向いてない。

そもそも目立つことが極端に苦手なのだ。子供の頃、ヒーローショーに連れて行かれ、「よいこのみんな! ステージに上がってヒーローを助けてあげて!」と言われても、怖くてステージに上がれなかったのだ。怪物が怖いのではなくて、それを見る人々の目が怖かったから。
50円入れてガウンガウン動くだけの遊具にだって、目立つから、と恥ずかしくて乗れなかったのだ。そんなチキンな私に役者なんてできるわけがない。

私は逡巡した。
脚本家を経てから監督になる最短距離を、捨てるわけにはいかない。ただでさえ映画研究会を飛び出して、退路は塞がれているのだ。ど、どうする? 

ちなみに、後から知らされたのだが、勧誘ブースにいたのは引退した四年生がほとんどで、現役は二年生ひとりと、三年生ひとりの、ふたりしかいなかった。そりゃあ、一年は役者からやらなきゃダメだ。人がいないんだもの。しかも二年の先輩は、私にそっと「ごめんなぁ、オレ、本当は辞めたいんだぁ。だけど先輩が怖いからさぁ、もう少しいて、おまえら一年が育ったら、そっと辞めるねぇ」と言ってきた。
その先輩は、俺たちの成長を見る事なく、すぐにいなくなった。

三年の先輩は元ヤンだった。
「俺の高校時代」と見せてきた写真の中で彼は、剃り込み入れてボンタン履いて、パンジーの花壇の前で睨みを利かせていた。
なんだこれ、笑わせたいのか? 悩んだあげくに私が発した言葉は……
「カッコいいっすね」
「……だろう?」
先輩はニンマリと笑った。

先輩は自分が大好きだった。好きな俳優はブルースリーで、好きな映画は「ドラゴンへの道」だった。

口癖は「気合い入れろ!」で、怒らせると「腹にさらし巻いて来いや」と言う人なのだ。うん、もう、合うわけがない。
逃げ出したかった。だがもう後がないのだ。
ここで脚本を書くしかない。そのためには、ここで役者として二年間耐えるしかない。私は腹をくくった。

役者になろう。いたしかたない。

だが腹をくくったその直後に、

「次の公演は俺が脚本書いて演出もするからな。題名は『ドリーミング』だ! みんな気合い入れるぜっ!」

と先輩が叫んだので、私は膝から崩れ落ちたのだ。


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