足りないふたり
「ごめん、遅れるから先入ってて〜」
大学の同期マリコに誘われ、府中にある「珈琲屋マロコ」という喫茶店に来ている。太正浪漫あふれる純和風な古民家で、入り口には昔懐かしの赤い郵便ポストが佇んでいる。学生の時分、古民家カフェにハマっていた僕は、この店を知るやいなや、彼女に「府中にマリコと似た名前で最高の喫茶店がある」とやたらと熱く語り入れ、授業終わりに連れて行った記憶がある。
悪気のない遅刻は彼女の特技だ。今も変わらないらしく、なぜだか安心したし、何ならそのつもりでもう先に店に入っていた。奥の席に通され、店内を見回す。「かぜにえがお」という健康を謳ったであろう標語が書かれたレトロな看板、「本日東京競馬開催」という昔からありそうな立て看板が事務室脇の柱に飾られている。片隅には高さ2mほどの振り子式の古時計や蓄音機が鎮座し、かつてあったであろう2階へつながる階段が強い主張と共にどっしり構える。
マリコとは大学を卒業してから2年くらいまでは年に何度か会っていたが、よくある話、いつの間にか疎遠になっていたので、もう5年は会っていない。最後に会ったのは多分、平日の仕事終わりに吉祥寺のハモニカ横丁で転職相談を受けた日だった。その後彼女が転職をしたかどうかも、正直知らぬまま時が経っていった。
「マロコブレンドです」
頼んだ珈琲がやってきた。中深煎りの定番珈琲だ。マリコと喫茶店に来ると、だいたい2杯頼むことになる。1杯目を8割程度飲んだ頃合いに、いつもマリコはやってくるから。
マロコにはおよそ2年ぶりにやってきたと思う。その時と違って今日は何だか視野が広い。昔の黒電話が2台置いてあり、囲炉裏の席もある。テーブルはダークの木目調、「the singer maneg-co. 」と書いてあるミシン台、天井から吊るされた照明はおばけ型。棚には達磨や観音、民族お面や昔のアルコールランプ、珈琲ミルなどの小物が並び、食器棚には伊万里焼の器がずらっと並んでいる。壁面には「市政施行当時の府中」の古地図や創業当時昭和45年の店の写真、明治期の風刺画、引札、真美人などが飾られている。
正面に目をやると、本棚には『東京いま・むかし』『ふるさと府中』『珈琲が呼ぶ』など、この土地の歴史や珈琲に関する本をはじめとする文化人類学系の本が並んでいる。それに並んで『ジャパンアズナンバーワン』や『官僚に告ぐ!』という本があるのが滑稽だが、このバランスが絶妙にいい。どこの家の本棚にも、趣味嗜好が垣間見える中で、どうしたこの本は、というのが1割程度あったりするし、持ち主の過去を思い巡らすのには十分事足りる。こうして飲む珈琲が結構旨い。
こうしてあたりを見回しながら物思いにふけていると、突然店の扉がガラガラと鳴った。
「えーっと、どこだろう、はい、待ち合わせで、はーい」
なにやら慌ただしい声が聞こえてくる。確実にもう、マリコ一択である。
「わーマジでごめんなさい遅れました!もうほんと急に誘っておいてごめんね〜、やー着る服がなかなか決まらなくて、っていうか久しぶり!お!なんかカッコよくなったじゃん、なぬっ髭生やしたん?似合ってるう〜」
彼女を待っている間、いくばくかの気まずさとわくわく、不安が同居していたが、遊園地のような騒がしさとスタバの新作みたいなコミュ力の彼女に、すぐさま懐かしさと安心感に包まれた。
「全然大丈夫だよ、お疲れ!久しぶりだね、元気だった?」
彼女は当時YUKIに憧れて肩までのボブヘアをやたらと気に入っていたが、久しぶりに会うと長澤まさみのようなショートヘアになっていて、卵型の輪郭にスッとした鼻筋、猫のような目をした彼女にはとても似合っていた。リネン生地に襟付きで、ウエストにレースがあしらわれたベルトがアクセントになった抹茶色のワンピースも、彼女が意識してかどうかこの店にたしかにマッチしていた。
「元気元気〜、あ、もう頼んでるね、ごはんは食べた?まだ?たまごサンドにしよ」
僕もここで珈琲を飲み干し、マリコと一緒にピザトーストのセットを注文した。
「ピザトーストもいいよねえ、でも今日はマロコのたまごサンド食べよって決めてたんだ、昆布入ってて『ワフー』って感じするよね」
マリコが来ると何だかさっきまで眺めていた店内も陳腐に思えてくる。マリコは沈黙が苦手な性分な上、バイキングで元をとるが如く今まで会っていなかった時間を取り戻そうと思い出話にうるさいし、僕はいくぶん周りの目が気になってしまっていた。
「そういえば覚えてる?植物も動物も寝静まる時間が存在するって、一緒の授業で映画で観てさ。夜が明ける前に「青の静寂」が訪れる瞬間があるってやつ」
「エリック・ロメールだね。『青い時間』。
虫や草木が寝静まって、鳥や太陽が目を覚ます前の、自然がすーっと息をとめるような、色もない、そんな時間」
「そうそう、それ!そんなの本当にあるのかな〜って言って明け方に二人でキャンパスに忍び込んだよね。なんかすーっと静かになってくのは分かったんだけど、静かになるほどなんだか可笑しくなっちゃってわたし爆笑しちゃってさ」
「そしたら鳥がバサバサって。あれ、マジで最悪だったよ。青の時間、返してほしいわ」
「なんか真面目なのに弱いんだよね。空気感に耐えられないというか。思い出した、てっちゃんと初めて添い寝した時さ、緊張して真っ直ぐぴーんって流木みたいになってたでしょ?身体細いし。おかげで超広く寝れたけど、めっちゃ笑い堪えてたもん」
マリコと僕は当時何となくお互いが好きで、授業も学食もだいたいいつも一緒にいて、何なら何度か身体の関係もあった。二人を付き合ってると勘違いしたまま卒業する友人がいるほど距離が近く、それでもお互いに『好き』とは言えなくて、マリコの留学を機に会う回数も減っていってしまった。
「てっちゃんはあれから彼女とかできたの?」
「うーん、まあできたり別れたりというか。5年も会ってないから色々あったよ。マリコは?」
マリコは自分に話が振られると、急に話題を逸らすようにわざとらしく話を切り出した。
「あ!そういえばてっちゃん、競馬って好きだっけ?」
「…?うん、好きだよ」
「よく行く?」
「よくは行かないけど、たまに、かな」
「なんかさ、たまに世間体気にしてるのか知らないけど、競馬はギャンブルじゃないみたいなこと言うやついるじゃん、馬が走ってるのが好きみたいな」
「男のロマンってやつね」
「ロマン主義はいいんだよ。本当にお馬さん好きそうなおじさんとかいるじゃん。そういうのは見て分かるし全然良くて。そうじゃなくて、自分ギャンブルとかやらないクリーンな人間です、っていうのを遠回しに言ってるような、一般女性からのモテ余地を残しておいてるようなやつ」
「ああ」
「別に競馬は賭け事じゃないし、でも賭け事だし、万馬券当たったらうれしいくせにモテを意識して体裁気にして自意識を勃起させやがって、スカしてやがるなって思うよ。そういうやつに限ってセックス興味なさそうに見せてギンギンだったりするでしょ。紳士だったら去勢しとくか?違うだろ?」
「めちゃくちゃ憤ってるやん、何があったんだよ」
「いやさ、昔付き合ってたやつがさ、わたしにギャンブル好きだと思われたくなくて他の女友達と競馬行っててさ、知らねえよ誘えよって感じで。なんかそれ思い出して、府中が気になってきて、てっちゃん誘ってみた」
「なんだよその理由」
「でも〜?こうして会えたからよくない?ねえ、どう?」
「うるさいなあ」
そう言うとマリコは珈琲を一口飲んだ後、すっと表情を変えて続けた。
「さっきの恋人できたかって話。昔からさ、わたしにとって露骨に『好き』って表現するの苦手でさ。色鉛筆って大事な色からなくなるって言うけど、私、どの色も同じ減り方になるように使ってたんだよね。それで白ばっか塗り込んでたら先生に褒められちって。私にとっての白って、ただの不純な動機だったのにね」
「好きじゃない白鉛筆、ね」
「本当は緑が好きで、いっぱい使いたいんだけど、減るのが嫌だから青と黄色重ねたりして、そしたらなんか汚くなっちゃったりして」
「本末転倒というか、マリコっぽいね」
僕はそう言い、もう残っていない珈琲をすすり、時計を見た。あっという間に時間が過ぎていたことにえも言えぬうれしさともどかしさを感じながらも、僕らはお会計を済ませることにした。
「マリコこの後は?せっかくだから大学まで甲州街道歩いてかない?」
「言うと思った。だからスニーカーで来たよ。ほれ」
そう言って軽く僕の脛を蹴った後、マリコは続けた。
「でもやめとく。なんかさ、思い出ってぼんやりしてるからいいじゃん?ピントをボカして撮る夜景ってカラフルな玉みたいになって綺麗でしょ。歩きながら当時の甲州街道と今とを答え合わせしたらなんだか冷めちゃいそうで」
マリコは自分から思い出話を散々しておきながら肩透かしにそう言うと、僕の表情を察して言った。
「でもマックとかドンキとかニケツしてよく行ったよね。てっちゃん実家だったからチャリ持ってなくていつもわたしの後ろだったし。あの時と変わらず、しもべのままでいてくれよな!ふふ、ウケる」
「…なんだよそれ」
店から出ると最後にマリコが振り向きざまに切り出した。
「実はさ、ご報告がありまして〜…結婚することになりました〜パチパチ」
「おお、そうなんだ」
「いや『そうなんだ』じゃねえだろ、まず祝え」
「いや、ほんとそうだよね、おめでとう」
僕はいつもと変わらぬテンションでそう言った後、核心をつくように続けた。
「…あとさ、さっきマロコで言ってた競馬の男って、その結婚する人でしょ」
「う〜そういうとこするどいよな…まあ色々あったけど、うーん、まあ今はこの人なのかなあって」
「今は、ねえ…」
しばらくマリコの苦手な沈黙が続いた。マリコは自ら話を切り出そうというよりも、この時は僕からの言葉を何か待っているようにも思えた。
「どうでもいいんだけどさ」
「おっと、どうでもいいなら言うな?」
「マリコ、そういえば僕らカラオケよく行ったじゃん?」
「あ、武蔵境のね!年がら年中行ってたよね、ダーツなんかもしちゃったりして」
「そうそう、それで、斉藤和義の『ずっと好きだったんだぜ』って歌あるじゃん」
「うわー、てっちゃんよく歌ってたよね〜」
「あれって過去の恋愛の話みたいだと思うんだけど、これ僕なりの見解ね、現在完了形として捉えるか、過去形として捉えるかだと思うんだよね。だから多分斉藤和義は昔からずっと今も好きなんだぜって歌ってる。恋仲だとよくいろんな場面で『だったって何?』って突っかかるのをよく見かけるけど、男ってそういう表現する時、『今も』っていう意味合いもあると思うんだよね」
「ほう。で、結局何が言いたいの?」
「…好き、だったんだよね」
「ねえ、死んで」
マリコは微かに目を潤ませながらこちらを睨み表情を歪めた。
やっと言えた。やっと言えたけど、同時に現在完了的に大好きな色の鉛筆がなくなっていくような感覚がした。
「僕たちなんかさあ、」
「出会うのが遅すぎたね」
「いや、早すぎたと思うよ」
※珈琲屋マロコ、東京外国語大学は実在する舞台ですが、実在のモデルや経験はなく、すべてフィクションです。
レモンサワーを消費します。