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ぼくと写真。

写真に出会ったのは小学生の頃だ。

幼ながら、手持ち無沙汰に家のタンスを漁っていると、なにやら無骨でかっこいいものを見つけたのを覚えている。それがフィルムカメラだった。

こうした機械的なものに触れるのが楽しかったのか、小気味よい音を楽しみながらパシャパシャとシャッターを切ってみたり、巻き上げレバーのガラガラと手に残る感触が好きで引いてみたり、なにやら異世界に飛び込むかのようなワクワクとともにファインダーを覗いてみたり。フィルムカメラは当時のぼくを魅了するに十分であった。

そんなことを繰り返しているうちに、どうやらこの機械でちゃんと写真というものが撮れるのだと分かってきた。そこで父親にフィルムをもらい、ようやくのこと背面のフタを開け、フィルムをセットした。
分かってるって。もう大丈夫だから。好奇心を示す息子に手取り足取り教えてくれた父親に対し、そんな生意気なことを言っていた記憶もある。しかしながら、その言葉の通り、なぜだか当初から、慣れた手つきだったのを記憶している。

さて、いざ写真が撮れるとなると、今まで無邪気に扱ってたものも、いよいよ話が変わってくる。気を引き締めないといけないと思えてきた。同時にワクワクが止まらない。だって、自分がシャッターを切れば、ぼくが作った世界が出来上がるのだから。

だからといって、たいしたものを撮った記憶はない。なんでもない部屋の一角や、当時飼っていたねこ、窓から見える景色。出来上がった写真は、ブレたりピントが合ってなかったり、どれもうまく撮れていない。

時には、友だちと遊びに行くのに、自慢げに持ち歩いたりもした。見てこれ、カメラなんだぜ。そういってカメラマンを気取って、みんなを撮ったりもした。

ある日、フィルムまるまる1本分、すべて友だちの親戚の子どもを撮った時には怒られた。たぶん、ぼくがなにを撮るのか楽しみにもしていた親も、少しがっかりしたのだろう。

そんなこんなで、小さい頃からカメラが好きだった。まるでピントが合ってなくても、どんなにヘタクソでも、ぼくが撮った写真というだけで、よかったのだ。

それから、ぼくがカメラにハマるのは大学生になってからだった。中高生の頃は、修学旅行のときに写ルンですを使った記憶くらいしかない。たぶん当時は人並みに流行だったりかっこよく気取ることで頭がいっぱいだったのだ。

***

大学に入って、当時勉強ばかりで世間知らずだったぼくは、いろんな地方からやってくる友だちにそれはもう刺激を受けていた。
彼ら彼女らは決まってぼくの全く知らない遊びや考え、趣味を持ち込んでくれた。タバコもそうだったし、サークルなんていい例だ。
そしてそれは選び放題なのだということ、やったもん勝ちみたいなことに気持ち新たにワクワクしていた。

ある日、友だちのひとりが、カメラが面白いのだと教えてくれた。当時付き合いたての彼女と東南アジアに旅行に行ったり、ロシアに留学したりと、親からもらったデジカメで必要に駆られて写真は撮っていた頃合いだった。

彼はコンパクトデジタルカメラの中でも、RICOHのGRをおすすめしてくれた。気軽に持ち歩ける上、スナップで使うプロカメラマンもいる、なにより写りがよいのだと、彼の撮った写真を見せながら、目を輝かせて教えてくれた。でもそんな些事はどうでもよかった。彼がすすめるのなら、それはもう当時のぼくにとっては買いだった。

すぐさま、学生という身分、金がない中でも頑張って買ってみた。いつしか、単純に思い出を残すものとなっていたカメラだったが、幼い頃の記憶が蘇ってきて、この出来事が、自分を表現するものへと変えてくれた。

そういった意味でも、ぼくが「写真歴」を語るときにはここから遡っていうことが多い。

ぼくはこのコンパクトデジタルカメラであることに誇りと自負を持っていた。中には一眼レフを使う友だちもいたが、コンパクトで勝負することに意味があるのだと、謎の対抗心を燃やしていた。

カメラを手にしたぼくは、空いている日には、ひとりでしゃれた建造物や都内の庭園を調べてひたすらに巡っては写真を撮っていった。

自己流だったが、過去に撮った写真をPhotoshopで加工することも覚えた。とにかく写真というものがたまらなく楽しかった。

それから社会人になり、心の余裕を持てなくなってから、しばらく写真から遠ざかっていった。

***

ある日、以前ぼくにカメラをすすめてくれた友だちと飲んでいた。彼は、ぼくが絶対いいと思うものがあるのだと語り出した。そこで教えてくれたのがフィルムカメラだった。COSINA BESSA R2Mというものだ。彼は饒舌にそのカメラの特徴や機構、メーカーの歴史などを話してくれた。例によってぼくは半ば聞き流していた。まさしくこれは買いなのだろうと本能で感じたからだ。

それからというもの、今度はフィルムカメラに熱を入れはじめた。シャッターを押してから現像されるまでのワクワク、がっかり。幼い頃の自分が重なってなお楽しかった。
ありのままを撮れる感じもとても好きだった。例によって一眼レフは仮想敵だ。奴らは真を写していない。そんな斜にかまえた考えもあった。しばらくの間、フィルムを愛していた。

***

ぼくが今そうであるように、一眼レフを使うようになったのは、つい最近のことだ。フィルムを愛用していたのだが、どうも現像が追いつかない。もどかしい感じがしはじめた。まさにそのころ、仲のよい友だちがこぞってタイミングよく一眼レフを買うのだといいはじめた。そうなると、考えなくはない。ただあの一眼レフのデジタルな感じがなじめない、そこだけが気がかりであった。

そんな中、どうやら一眼レフを使いながら、オールドレンズという昔のレンズを組み合わせることで、フィルムのような質感を表現できるらしいと聞いた。それならぼくにも合いそうだと思い、思い切って購入してみた。タイミングよく、友だちの結婚式のムービー制作の依頼がきたことも、それを後押しした。2018年の3月のことだった。

いまこうして記してきたが、一眼デビューもたかだか1年弱だ。意外と日が浅い。だが、毎週のように写真は撮っている分、成長も感じるし、自負もある。記憶では6月、10月あたりにちょっとしたブレイクスルーを感じた。ただ、その度に新たな課題も見えてくるから、写真は奥が深い。

もちろん今いったように、スキルも大切だと思う。けれども、小学生の頃に感じた感覚は忘れずにいたいし、写真は生き方だ。これからは、もっと人の決定的瞬間、感情の動きを切り取れるような写真を撮っていきたいと思っている。

最後に、ぼくの敬愛するアンリ・カルティエ=ブレッソンの言葉を借りて締めることにする。

As far as I am concerned, taking photographs is a means of understanding which cannot be separated from other means of visual expression. It is a way of shouting, of freeing oneself, not of proving or asserting one’s own originality. It is a way of life.

#カメラ #写真 #自分史

レモンサワーを消費します。