見出し画像

Hello|自己紹介

こんにちは。石黒哲と申します。

株式会社FYSKY(フィスキー)の一員として働きながら、フリーランスとしてブランディングや制作関連のクライアントワークを請け負って生活しています。このnoteには、普段自分が考えていること、取り組んでいること、そして今後挑戦したいことなどを記していこうと思っています。

FYSKYとフリーランス、自分の中では「二足の草鞋を履いている」という感覚はなく、FYSKYのメンバーとして仕事をする際と、個人で受けた仕事をする際に「気持ちの切り替え」みたいなものは特にありません。でも、きっと外から見たら僕がどの組織にどう関わり、普段どんな仕事をしているのか見えにくい部分もあると思います。「それでいい」と言ってしまうことは簡単ですが、その辺りも開示していければと思っています。でもその前に、まず今回は自己紹介を兼ねてこれまでの経歴や経緯について書いてみます。

1. 森ビル株式会社|2015.4 - 2018.1

"街づくり"とは・・・?
2015年3月に上智大学を卒業し、新卒で翌4月から約3年間勤めたのが不動産ディベロッパーの森ビルという会社です。

自分がアメリカに交換留学していた大学3年〜4年というのは当時の日本では就職活動の期間とぴったり重なっていて、交換留学から帰ってきた学生は休む暇もなく「秋採用」という理不尽に門が狭くなった就職活動に挑むか、翌年"大学生として"就職活動をするためだけに無駄にもう一年大学に残るという選択に迫られていました。自分としては絶対に4年で大学を卒業して社会に出たかったから、死に物狂いで就活をした記憶があります。

そんな中、自分は縁あって第一志望の森ビルから内定をもらい、入社することになりました。2014年から2015年にかけてニューヨークに留学していた自分は生活者から自然にボトムアップで構築されるカルチャー、そしてそのカルチャーを身体的に楽しむことのできる街に心底魅了されていました。特にその頃のBrooklynは今ほど大衆化が進んでおらず、当時の自分にとっては本当に格好良い場所に映ったのでした。佐久間 裕美子さんの「ヒップな生活革命」という本は、当時自分が感じていたことがそのまま言語化されているように感じられる本です。

日本に帰国して自分が書いた卒業論文のタイトルは「魅力ある都市とは」で、その頃の自分にとっては"街づくり"が最大の関心でした。ただし、自分は「生活者が自然発生的にカルチャーやコミュニティを形成し、そこに結果として魅力ある街が出来上がる」という現象に心を躍らせていたので、森ビルのような大手ディベロッパーの街づくりには、共感する部分もありつつ、ある部分では真逆の存在でもある様にも感じてました。かといって「まずは自分が何もない場所(ってそもそもどこ・・・?)にポツンと店舗を作り、その周りに魅力ある街を広げていく」というストーリーを信じる自信はなく、ニューヨークで感じた理想と、迫り来る就職活動という現実の狭間で悩んだ記憶があります。そんな時、森ビルの創設者である森稔さんの著書、「ヒルズ 挑戦する都市」を読み、この会社は時に相反する「ボトムアップのコミュニティ形成」と「トップダウンの街づくり」をハイブリットで実現しているのでは、と感じたのでした。

自分のキャリアのハンドルは自分で握っていたい
そうして入社した森ビルには2015年4月から2018年1月まで勤務しました。森ビルでは広報/PRの部署と、マンションの営業を経験しました。森ビルについては別途記事をかけるくらい思い入れや思うことがあるのですが、ここでは割愛します。大好きだった森ビルを辞めることを決めた最大の理由は「社外で勝負できるスキルやキャリアの構築がここでは出来ない」と感じたからです。求められるスキルや知識がガラリと変わる部署移動が数年ごとにおこなわれ、ジェネラリストとして育成されていく日経の大企業(森ビルを含む)では、(極論ですが)その会社がある日潰れて外の世界にほっぽり出された時に、転職市場での価値もなければ、自分でビジネスを始める力もない存在になる、と感じました。あとはもっと直感的な部分で、自分がどんな部署でどんな仕事をするのかを自分自身で決めることが出来ない、ということに納得できなかった、ということもあります。こうして2年10ヶ月間働いた森ビルを退社し、転職をすることを決めました。

2. 株式会社博報堂|2018.4 - 2021.11 

博報堂を選んだ理由
森ビル時代、広報/PRの部署では、広告代理店、WEB系のマーケティング企業、デザインエージェンシーなどと関わる機会も多く、彼らの仕事振りに漠然と憧れを感じていました。また、例えばWEBサイトを作っても、紙の制作物を作っても、イベントを開催しても、心のどこかで『これっておれ(というか森ビル)がつくったというより、発注先の制作会社が作ってくれたものなんだよなあ』という感覚があり、"作る側"に身を置きたいという気持ちもありました。

また、前述の通り、自分のキャリアは自分でコントロールしたい、筋の通った成長曲線を描きたいという想いもあり、転職活動はコンサルティングファームと広告代理店に絞っておこないました。いくつかの企業から内定が出る中で、自分の中にある「何か目に見えるものをつくることに関わっていたい」という気持ちを捨てきれず、最終的に広告代理店を選びました。

博報堂ではAccount Director(所謂"営業")という職種で、デジタルマーケティングからTVCMの制作まで、マーケティングや制作に関する様々な業務に携わりました。この3年半の間に学んだこと、経験したことは計り知れないものですが、これもここでは割愛します。

そして、博報堂を辞める
3年半勤めた博報堂を辞めた主な理由は以下です
・結局まだ自分が"作る側"に身を置いていると感じられなかった
・カルチャーが肌に合わなかった
・労働時間が長すぎた
・取り敢えず一周した感、があった

特にネガティブな退社だった訳ではなく、自分の人生における時間の使い方や、次にやりたいことがはっきりしてきた中で、それを博報堂という会社では実現出来ないと感じ、冷静に判断しました。博報堂での最後の1年間、睡眠時間を削って向き合ったビッグプロジェクトをクライアントに納品した翌日、上司に「これにて辞めます!」と伝え、実際に1ヶ月後には退社しました。

3. 博報堂を辞めた時に考えていたこと|2021.11 

FYSKYに軸足を置きながら、小さな会社にも所属したい
先に記した"次にやりたいことがはっきりした"、そのひとつは、自分にとって兄の様な存在である井出さんとFYSKY(フィスキー)を運営していくことでした。

FYSKYは自分がまだ博報堂に勤めていた頃から発足に向けて準備を進めていて、2022年1月にローンチした革靴のブランドです。会社員として働きながらFYSKYの手伝いをする中で、「これに賭けてみたい」、「限りある自分の時間をもっとこれに使いたい」という気持ちがどんどん大きくなっていました。

とはいえ、この頃はまだFYSKYだけで生活していくイメージは持つことが出来ていなかったし、自分にはもう一つ"次にやりたいこと”がありました。それは「ブランディング開発と、それに関わる制作仕事」でした。

博報堂での最後の1年間は、英国のデザインファームWMH&Iと協業したNippon Express (日本通運)のグローバルリブランディングを担当していたのですが、このプロジェクトを通して自分のやりたいことはマーケティングや広告ではなく、「ブランドをつくること」だと確信しました。マーケティングや広告はあくまでビジネス上の打ち手であり、まず先に強いブランドをつくらないことには、緩い土壌に建物を立てようと足掻く様なものです。商材やサービス、ブランディングに問題がある状況で、マーケティングや広告に大量の費用を投下してどうにかビジネスを好転させようと足掻くクライアントに自分はずっと違和感を感じていました。また、クライアントのその姿を真近で見ているのに、そこにアプローチすることが出来ない広告代理店の存在にもがっかりしていました。

結論、博報堂を退社した当時の自分は「FYSKYの一員として一人称でブランドを育てながら、小さなエージェンシーにも籍を置いてクライアントワークも請け負う」というキャリを思い描いていました。

4. 実際にはどうなったのか|2022.4 - 現在

気が付いたらフリーランサーになっていた
(幻となった)3社目の転職活動では大手企業に入るつもりはなく、小さな組織(副業OK、フレックス、自分の任された案件には当然責任を持って取り組むが無駄な会議や研修などは一切ない)を思い浮かべていたので、数ヶ月キャリアに穴が空いていても特に問題ないと考えていました。だから、会社を辞めて数ヶ月間は細々とFYSKYの仕事をしながら、旅行に行ったり、サーフィンをしたり、本を読んで、ひたすらのんびり生活していた様に記憶しています。

「流石にそろそろ就職活動をしようか」と思い始めたのと、「テツがだいぶ暇そうにしている」という噂が周りに流れ、友人や先輩から「こんな仕事あるんだけどちょっと手伝ってくれない?」と連絡がき始めたのは、ちょうど同じくらいのタイミングでした。こうして、2021年の春頃から、なし崩し的にフリーランスとして仕事を受け始めることになります。同時にFYSKYのメンバーとして果たす自分の役割も徐々に大きくなっていきます。

そして、結局2年経った現在もこの生活が続いている、という訳です。個人事業主としての開業は会社員時代にしていたし、「明日からフリラーンスとして生きていこう!」と決心して会社を辞めた訳でもないので、(仕事に対しての向き合い方の話しではなく自己認識という意味では)今でも自分が立派なフリーランサーだという自覚はないままです。FYSKYとの関わり方は、当初は"井出さんのお手伝い”という入り方でしたが、今では自分のリソースの80%くらいを注いでいて、会社に出資もしています。

もう引き返せないから、この道を進む
こうして時系列で整理をすると、つくづく現在の自分の生活が”思い描いて実現した未来”ではないことが分かります。もちろんその時々、自分の人生について真剣に考えてチョイスをしてきた結果ではあるものの、誤解を恐れずに言えば「気がついたらこうなっていた」という感じの方が強いのも事実。

一方、過去に戻って"未来の選択肢の一つ"として現在の自分の姿を見せたら、過去の自分はきっとこの生き方を選ぶだろう、とも思います。つまり後悔は微塵もありません。大変なことや不安、分からないことや失敗の方が多い毎日ですが、それでも「過去に戻ってこれ以上の人生を描け」と言われても、その方が難しい。だからここまでに来たらもう、なし崩し的にとは言え選んでしまったこの生き方で、食いっぱぐれて飢えない様に、そして応援や期待をしてくれる家族や仲間を裏切ることのない様に、頑張るしかないと思っています。

フリーランスとして仕事を受け、"労働に対する対価を得る"というサイクルを超え、自らビジネスを創造していくことにも挑戦していきたい。

覚悟なんて大袈裟なことではないけど、なんとなくその整理が出来たタイミングが今で、それでnoteを書いてみようと思えたのかもしれません。

長い自己紹介になってしまいましたが、今後は過去の話しではなく目の前のこと、これからのことなどを書いていければと思っています。

引き続きよろしくお願いします。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?