隣の芝生なんてみんな青いし立派だけど、自分に許された庭はこれだけだから。
妬みや嫉みに類する感情が(自分以外の内側なんてわからないけれど、おそらく)一般平均と比べてかなり小さい。
「何故ぼくorわたしがもっていないものをあいつが!!」
みたいな想いがその根底にあるのだと推察するのだけれど、みんながあたりまえにもっていても自分には与えられなかったもの(親とか)なんて、ガキの頃からあたりまえだったからなあ。
人間はみんな公平で平等ですみたいな、誰も信じていない嘘っぱちに洗脳される前から、所有できるモノやコトには個人差があるなんてよく理解していた。
いい年こいてその手のモヤモヤに悩まされている方々は今更そんなことに気づくなんて、むしろこれまでの満たされた人生に感謝した方が良いのではないか。
そして、まあ足りないものが山ほどあっても俺は、主観的にも客観視しても、わりと楽しく満たされて生きていると思うのだ。
おばあちゃんがいたから無事に生き延びられたし、ありがたいことにきちんと働いて普通に暮らせる程度には育成してくれたし、頭は悪いが体力は無尽蔵だし、人間性はクソだけれど何故か、本当に不思議だけれど、つきあってくれる友人たちがたくさんいる。
何に、誰に感謝するべきなのかはわからないけれど、ありがてえよな。
足りないものばかりでも、その足りない部分を埋めてもまだわんさか余るくらいにみんながいろいろ与えてくれる。
感謝以外の感情なんて生まれないだろ。
本当に、心底から、他人の人生や、そこを歩む上での他人の感情の動きなんてどうでもいいけれど
こうして自分だけの庭について考えることができるってだけで幸福だし、感謝するべきだと思うけどなあ。
隣の芝生の青さを綺麗だなと感じて嫉妬できる日常なんて、とても贅沢じゃん。
ありがたい環境だよな。
飢え死にする心配もない。
屋根のある場所で眠れる。
こんなどうでもいい文章をスマホ(贅沢品だな!)で眺める余裕がある。
これが幸福じゃなければ何が幸福なんだ。
そして今を手に入れられたのは自分の力じゃねえぞ。
ここに至るまでに関わった全てのおかげだぞ。
どれか、何が、誰が欠けても今には至れなかった。
今の自分は構築されなかった。
ありがてえことだよな。
満たされなさや不幸さって感謝するきもちの欠如から発生するんだぜ。
日々生きている中で、わざわざ注意して他人や社会の気に食わないところを見つけてイライラカリカリする時間があったら
その日出逢った人との小さな関わりに喜びを見出したり、夕飯の定食の美味さに感激して、お店の方に感謝したりする方が絶対にいいって。
幸福だと感じる力も少しずつ自分で育てていくんだぞ。
誰かが楽しくしてくれるわけでも、満たしてくれるわけでもない。
自分の機嫌は自分でとって、自分の幸福は自分で構築しなさい。
そんな小さなところから、世界全体の幸福も繋がっていくんじゃねえの。
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