魂の立ち位置を描こうとする試み 藤井風「調子のっちゃって」の「歌い言葉」
わたしたちは、何度も何度も同じ間違いをくり返します。間違うたびに反省しますが、それでもまた間違いをくり返します。
たまに褒められると調子に乗ってしまいますし、口先だけだとわかっていてもお世辞に舞い上がります。褒め言葉は、いくらもらってもお腹いっぱいにはなりません。いつも、おかわりを欲しがっています。
自分が調子にのっていたことに気がつくのは、誰かの「調子に乗ってるよね」という声です。ガックリします。もう、本当にガックリです。足元が崩れていくような感覚に陥ります。
「調子に乗ってるよね」って、何度も人の後ろ姿を指さしたのに、自分が指さされていることには気がつきません。トホホ、です。
そんな時は、薄暗いバーの隅に隠れていたい。自分の姿を闇に溶かしていたいと思います。
あなたの言葉は この鼻を伸ばす
私だって 私だって
ついハイになって
着色の言葉 無味無臭の心
行き違って 行き違って
調子のっちゃって
(藤井風「調子のっちゃって」)
初めてこの歌を聴いたとき、「着色の言葉 無味無臭の心」って、何だぁ! と思いました。藤井風の言葉は、何気ないところで光りを放ちます。秀でた修飾の言葉とは、これまで一度も聴いたことがないのに、一度聴いてしまうと、もうそうとしか見えなくなってしまうものです。
「着色の言葉 無味無臭の心」
残念ながら、字面だけでは、このフレーズはそれほど魅力的ではありません。文字だけでは立ちあがらないのです。「着色」と「言葉」、「無味無臭」と「心」の距離が少し遠い。つながりが薄く、ピンとこないのです。
ところが、藤井の声と演奏がそこに物語を紡ぎます。私を調子づかせたあの言葉は、単なる「着色の言葉」だったこと、その言葉の奥にあったのは、冷ややかな「無味無臭の心」に過ぎなかったことが、見えてきます。
それに気がつかなかった私の恥ずかしさと情けなさまで、感じられる風景です。
それができるのは、そこに彼が立っていたことがあるからでしょう。「無味無臭の心」から発せられた「着色の言葉」を聞かされた調子にのった藤井が、本当にそこにいたからでしょう。当たり前です。二十歳そこそこの青年が、調子に乗ることから逃げられるわけはありません。
まやかしの宝 見せかけの光
風に乗って 風に乗って
どっかいっちゃって
気付けば
優しかった いつも支えてくれた 信じてた
あの子の顔 探しても見当たらない
調子のっちゃって
調子のっちゃって
(同上)
「まやかしの宝 見せかけの光」に、舞い上がる藤井風。彼は、もちろん神などではありません。調子に乗るのです。人ですから。でも「気付けば」「探しても見当たらない」人がいる。もう、取り返しがつきません。
私たちが犯す間違いは、いつだって取り返しがつかないのです。
だからもう二度と、そんなことをくり返したくはありません。
デビュー前の青年が、自らの戒めとして描く風景が、ここにあります。
もう二度と犯さない
恥ずかしいカン違い
自分一人 生きてきたって 果たしたって
当たり前なんてない
その一瞬の隙を運命は 見逃してくれない
ちょっと待ったって!
「もう二度と犯さない/恥ずかしいカン違い」と藤井は歌います。でも、きっと藤井は、これから何度も「恥ずかしいカン違い」をし、「調子のっちゃって」いる自分に気がつくはずです。
藤井の「歌い言葉」は、魂の立ち位置を示そうとします。その魂が、今、どこをどのように彷徨しているのかを示そうとします。
魂の立ち位置を示すことで、彼の「歌い言葉」は普遍性を帯びます。魂の立ち位置には、それほど多くの個別性はありませんからね。
藤井風の「歌い言葉」は、誰にも覚えがある魂の立ち位置をなぞっていきます。
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