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音楽の広さとことばの狭量さについて考えた

 日本音楽の大きな特徴を、「西洋音楽が伝統音楽と並行して存在している」ことだと喝破したのは、小泉文夫(『日本の音 世界のなかの日本音楽』1994・以下も)だ。彼は、さらに、日本音楽では西洋音楽も伝統音楽もいくつかの流派に細かく分かれて「並列的に存在していくという平行現象」を示しており、それが「世界のあらゆる音楽文化の中で、日本の一番大きな特徴」だという。

 また、それが「日本の音楽文化を力強く一本にまとめることができない重大な原因である」という一般的な見方に対し、彼は「たくさんの音楽文化」を持っていた日本人が、戦後になって「その間の垣根がとっ払われ」「渾然一体とした発達、その総合的な表現力」を示すようになってきたので、「もはやわれわれはあまり心配する必要がないようです」という。「並列的に存在していくという平行現象」が豊かさであり、魅力だというのだ。

 EIGHT-JAMを毎週観ていると、本当にそうだなあと思う。この番組は、ネタに困らないよなぁ、と。ここ2、3回だけでも、Ado、HIPHOP、米津玄師と幅広い。今のところ10代~30代をターゲットにしたポップミュージック中心だが、民謡や演歌、歌謡曲、JAZZやCLASSIC、現代音楽に広げていったら果てしがない。大友良英の個人特集なんか見たいなぁ。

 なんてことをつらつら考えているのは、最近、ある文体みたいなものが気になっているからだ。「文体みたいなもの」と妙に婉曲な言い方をするのは、文体というほど明確なものではなく、もっとほのかな「かおり」程度のもの、あるいはぼくの偏見に過ぎないかもしれないものだからだ。

 書かれていることはもっともなのだけれど、迫ってこない。文章が上滑りに読めてしまう。書かれていることには同意するのだけれど、なかなか共感が生まれない。そんな感覚を複数の本で経験した(あ、小泉さんの本ではなくて、最近の本です)。単にぼくが歳を取ってしまったということかもしれないし、そもそもぼくの誤読かもしれない。単に「合わない」のひとことで判断していいのかもしれない。

 ただ、そんな自分を狭量だな、と思うのだ。漫画や音楽と違って、文学や論壇はどうしても他を否定しがちだ。ことばが、自己のアイデンティティと不離のものだからかもしれない。もっと、EIGHT-JAM張りに、いろんな文章、ことばを楽しめるといいんだけどな。人もいろいろ、ことばもいろいろ、のはずだからね。

 小泉文夫さん張りに、ことばの世界も、その幅広さ、多様さが日本語の豊かさです、みたいに言えるといいんだけど。

 

 

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