泣くな! キヨシロー!! 忌野清志郎の「歌い言葉」
キヨシローの「歌い言葉」について書こうと思って、レコードやCDを引っ張り出してきました。七枚しかありません。えっ? 『シングル・マン』は? 『COVERS』は? 『EPLP』は? 『初期のRCサクセション』は? あ、これはきっとあの貧乏な時代に売ったに違いありません。でも、他のは?
借りパクはやめましょうね、みなさん。
キヨシローは、あまりに近しくて、うまく書ける気がしません。中学の時に聴いた「僕の好きな先生」。ちょうど古井戸の「さなえちゃん」と同じ時期だったと思います。どちらも、高校の文化祭の香りを残していました。同時期に流行っていたフォークやロックが、社会や人生を歌っていたのに対して、キヨシローは、もうちょっと身近なものを、大上段に振りかぶらずに、歌っていました。
この雨にやられてエンジンいかれちまった
俺らのポンコツとうとうつぶれちまった
どうしたんだ Hey Hey Baby
バッテリーはビンビンだぜ
(忌野清志郎、仲井戸麗市「雨あがりの夜空に」『RHAPSODY』1980より)
おんぼろ車に手を焼いている姿に、機嫌を損なった彼女を重ねたこの歌は、本当にちょっと軟派な高校生そのものです。特別なことは一つもありません。車と女性を重ねるなんて、当時としても陳腐です。でも、わかりやすい。歌詞も、文字だけでは立ち上がらない。そこに、詩はありませんよね。せいぜいノートに書いた落書きです(ごめんなさい)。
でもね、キヨシローの声は、それを特別なものにしてしまうのです。
Oh 雨あがりの夜空に輝く
Ooh 雲の切れ間にちりばめたダイヤモンド
こんな夜に おまえに乗れないなんて
こんな夜に 発車できないなんて
(同上)
こんな安っぽい歌詞(本当にごめんなさい)を、超一級のラブソングに変えてしまう。それが、キヨシローの「歌い言葉」のマジックです。彼の「歌い言葉」は、泣き声なんです。がんぜない子どもの泣き声です。
星をダイヤモンドという陳腐な比喩、女性を車扱いする怒られそうなダブル・ミーニング。でも、それが陳腐であればあるほど、安っぽいものであればあるほど、キヨシローの泣き声のリアルは立ち上がります。
いい大人になっているくせに、いつまでも未熟な子どもみたいに、上手くいかない世の中に、イヤイヤをしているキヨシロー。一昔前、おもちゃ屋さんの店先で両手両足をバタバタさせて泣き叫んでいた子どもを、よく見かけました。キヨシローは、あのときの子どもです。キヨシローの泣き声は、彼らと同じ、全身全霊を込めた叫びです。
Woo授業をサボッて
陽のあたる場所に いたんだよ
寝ころんでたのさ 屋上で
たばこのけむり とても青くて
内ポケットに いつも トランジスタ・ラジオ
彼女 教科書 ひろげてるとき ホットなナンバー
空にとけてった
ああ こんな気持
うまく言えたことがない ない
(作詞・忌野清志郎「トランジスタラジオ」『PLEASE』1980より)
授業をサボって、屋上でタバコを吹かしていたというだけの話。それを「ああ こんな気持 うまく言えたことがない」と歌います。「言わんのかい!」と突っ込みたくなりますが、キヨシローの声が、キヨシローの泣き声が、それに詩を与えます。
なんてことはない、退屈な一瞬だったのに。その時は、「なんか面白いことないかなぁ」なんて思っていたはずなのに。キヨシローの「歌い言葉」を通して聴くと、それは切なくも美しい、多くの夢をはらんだ光景に、一瞬の幻に生まれ変わります。
昨日はクルマの中で寝た
あの娘と手をつないで
市営グラウンドの駐車場
二人で毛布にくるまって
カーラジオからスロー・バラード
夜露が窓をつつんで
悪い予感のかけらもないさ
あの娘の寝言を聞いたよ
ほんとさ確かに聞いたんだ
カーラジオからスロー・バラード
夜露が窓をつつんで
悪い予感のかけらもないさ
ぼくら夢を見たのさ
とってもよく似た夢を
(作詞・忌野清志郎「スローバラード」『シングル・マン』1976より)
言葉だけでは立ち上がらない世界を、キヨシローは声を使って構築してしまいます。ぼくは歌詞を読んでいるだけなのに、脳内にキヨシローのあの泣き声が流れてくるのです。まるでパブロフの犬です。ですから、ぼくは、「あの娘の寝言を聞いたよ/ほんとさ確かに聞いたんだ」という、それだけの言葉に、泣かされてしまうのです。
キヨシローの描く世界は幼く、未熟です。でも、それ故に、儚く、切なく、大事に守りたい、キヨシローにしか作れない風景になってしまう。
それもこれもみんな、あのキヨシローのせいです。
キヨシローの泣き声のせいです。
泣くな! キヨシロー!!