「山田」は「きだ」になった 開高健『人とこの世界』、山田𠮷彦『モロッコ紀行』
開高健『人とこの世界』(ちくま文庫2009)を読了。読んでいる途中で、すでに読んだことのある本だということに気がついたが、そのまま最後まで読む。もしかしたら、本棚のどこかに同じ本があるかもしれない。開高健自身も好きな作家だし、きだみのる、武田泰淳、金子光晴、深沢七郎、田村隆一など、以前から大好きな作家や詩人に対する評論(対談を含む)が並んでいるので、何度読んでも楽しい。
今回、気になったのは、今西錦司さん。考えてみると彼の弟子筋の何冊かは読んでいるのに、彼の本を読んだ記憶はない。だが、この後、読むべきリストがかなり混雑しているので、図書館のカートに『日本動物記』の四冊を入れておくにとどめる。今年中に読めるといいな。
続けて、山田𠮷彦(きだみのる)著『モロッコ紀行』(昭和18年 日光書院)を読了。戦時中の出版ではあるが、冒頭64ページに渡る写真が圧巻。1939(昭和14)年の春夏に、筆者がモロッコを旅した記録である。
そこにいる山田吉彦は、後年の「きだみのる」であるが、その違いに愕然とする。ここにいる山田は、ソルボンヌでマルセル・モースに学び、その知識・学識を持って人生を切り拓こうとしている新進の研究者である。
彼がモロッコに旅し、それが許されたのは(当時フランスは植民地であるモロッコへの入国を外国人に対して制限しており、日本人で山田ほど奥地に入った者はいない)、フランスのモロッコへの植民政策を学ぶためである。山田は何度となく、「フランスにとってのモロッコは、日本にとっての満州だ」と書いている。
朝鮮や台湾、満州に対する植民政策が、大日本帝国にとって非常に大きな問題であったことは、小熊英二『「日本人」の境界』(1998新曜社)に詳しい。しかし、『モロッコ紀行』の発刊は、昭和18年12月である。学徒出陣、学童疎開が始まり、昭和18年度の徴用は70万人に上っている。本土空襲が本格的に始まるまであと一年ほどあるが、ガダルカナルからも撤退し、山本五十六大将も戦死、朝鮮での徴兵も始まっている。植民地政策や経営を云々する時期ではないのだ。遅い、遅すぎる。
山田がモロッコを見る目は複雑だ。人類学者としての目、エトランゼとしての目、宗主国フランスの生活・文化を身につけた人の目、日本文化からの目、フランスのモロッコ政策から学び、大日本帝国の植民地政策に生かし、自らの立身出世に生かそうとする目が混在している。どれも嘘ではない。嘘ではないから、扱いにくい。
山田は、満州国で甘粕正彦に直接スカウトされた経歴を持つ。満州国でスパイとして活動しないかという誘いだったという。彼はそれを断っているが、違う角度から政治活動に参加しようとしたのが、この『モロッコ紀行』だったのではないか。ただ、それが彼の狙いだったとすると、この作品は焦点が揺らぎすぎている。確かに植民地政策に寄与する内容も多いのだが、それ以外の「山田の目」の記録が魅力的すぎるのだ。
一人の有り余る才能が、戦時下という時代のなかで、どのような化学変化をみせるのか。才能がどのように翻弄されるのか。そんなことを考えながら読んだ。
ちなみに、図書館で借りることができたこの本は、昭和18年の初刊本であり、古本を購入したもののようだ。前後の裏表紙には、「M.Hara」と赤鉛筆で記され、本文中にも傍線が二箇所引かれていた。「今にモロッコは満州大豆の強敵になりますから。」「血をとる方法は後頭部に僅かの傷をつけ、そこに熱気を含ませた硝子の椀を伏せ、椀は内部の空気が冷却して気圧を減ずるにつれ体に吸着し血を吸い出すのである。」の部分に線を引いたM.Haraの手を想像しながら読んだ。
山田が「きだみのる」に変じた理由。その一つが垣間見えた気がする。
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