東京都品川区 初代南極観測船 宗谷
船の科学館のとなりに係留されていて無料で見学できます。宗谷ははじめから南極観測船ではなかったということが発見でした。
1938年、長崎にある松尾造船所でソ連の貨物船 ボロチャベツとして進水したのがのちの宗谷です。当時ソ連は、カムチャツカ半島沿岸で使用する、音響測深儀を装備した耐氷型貨物船3隻を建造可能な造船所を探していて、日本の川南工業が受注し、松尾造船所で建造しました。その3隻のうちの1隻がボロチャベツです。ところが1937年の始まった日中戦争の拡大によりソ連への引き渡しができなくなってしまい、日本の貨物船 地領丸として竣工します。その後改装を経て、1940年に大日本帝国海軍の特務艦 宗谷となりました。特務艦とは直接戦闘には加わらず、他の艦艇の活動を支援する補助艦艇のことです。宗谷は南太平洋などの日本軍拠点で輸送や測量任務に従事し、トラック島空襲でも生還しています。ちなみに、宗谷という名前は1907年から1916年まで練習艦として使用された大日本帝国海軍の防護巡洋艦 宗谷の名前を受け継ぐかたちで命名されました。
戦後、宗谷は引き揚げ船となります。GHQは1945年10月1日、宗谷を含む使用可能な船舶すべて動員して在外邦人の引揚げをおこなうよう命じました。宗谷の乗組員は補修・整備を行う浦賀ドックに呼び集められ、応急工事ののち南洋のヤップ島に向けて浦賀を出港します。第1回目の引揚げ輸送は、1,280名の引揚げ者を収容して浦賀に帰着して終了、続く第2回目は11月に出港してグアム、トラック島方面へ向かい1,520名の引揚げ者を収容して12月呉に戻りました。その後も上海、台湾のキールン、ベトナムのサイゴン、1946年からは旧満州の葫蘆(ころ)島引揚げを数回、さらに大連、北朝鮮、サハリンなどからの引揚げ輸送も行い、特にサハリンからの引揚げ輸送は14回おこないました。1948年11月に最後の引揚げ者839名を函館に運び、6日に小樽へ回航されて引揚げ業務の総てを終了しました。宗谷によって日本に戻った引揚げ者の総数は19,000名近くにも達しました。
1950年から5年半、宗谷は全国各地の灯台に物資を届ける灯台補給船となります。住み込みで灯火の番をする海上保安庁灯台部の職員とその家族のために、年に1回、絵本やおもちゃなども届けたこの時代の宗谷は、「海のサンタクロース」と呼ばれ親しまれていました。
その後1955年12月12日に巡視船へ種別変更。そして1956年11月8日、初代南極観測船として、第1次南極観測隊員51名、乗組員76名、樺太犬22頭、猫1匹、カナリア2羽を乗せて南極に向け出港しました。
南極観測船になる以前にいろんな時代があったなんて!またまた勉強になりました!