神奈川県川崎市 明治大学平和教育登戸研究所資料館
登戸研究所は、戦前に旧日本陸軍によって開設された科学研究所です(1937年11月から敗戦まで)。正式名称は第九陸軍技術研究所ですが、外部に知られないよう「登戸研究所」と呼ばれていました。約100棟の施設に1,000名ほどの方が働いていて(地元採用が多かった)、防諜、諜報、謀略、宣伝といった秘密戦をおこなっていました。活動内容には、細菌兵器・毒物・偽札など人道上あるいは国際法上で問題があるものもあったため、関わった方々は敗戦後、研究所についてけっして口にしませんでした。
1980年代末に高校生らが先生と一緒に関係者へ聞き取り調査をおこないます。戦争を知らない高校生に今語らなければと、関係者が当時を語り始めます。そして2010年3月に資料館が作られました。開館時には当時働いていた方もお見えになり、「もう話してもいいんですね、ほっとした」と言われたそうです。戦争の傷が長く続いていたことがわかる言葉です。
登戸研究所ができる前、この土地には「日本高等拓植学校」がありました。ブラジル移民政策の一環でアマゾン開拓の中堅指導者を養成する私立学校です。1932年から1937年までに248名の卒業生を送り出し、現地におけるジュート産業拡大の中心勢力として活躍したそうです。ブラジル移民が拡大そして縮小し満州への移民が拡大していく。その後日中戦争がはじまり登戸研究所が設置される。日本の近代史にこの土地もかかわっていました。
研究所で開発されたもので有名なのが風船爆弾。広いアメリカ大陸に風船落とすなんてしょぼい作戦と思っていましたが、本当は爆弾を落とすのではなくウィルスをばらまくために作った恐ろしいものでした。細菌学的手段の戦争における使用の禁止を定めたジュネーブ議定書では、敵国に対して先に細菌兵器を使ってはいけないという内容だったので、日本が先に使うとアメリカが細菌兵器を使えるようになって逆に不利になるという判断で行われなかったそうです。
今回はガイドツアーに参加しました。資料館館長の方から丁寧な解説をいただけたので学びの多い時間を過ごすことができました。ありがとうございました!