茨城県稲敷郡阿見町 予科練平和記念館
◇予科練とは? 以下パンフレット抜粋
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「海軍飛行予科練習生」及びその制度の略称で、第一次世界大戦以降、航空機の需要が世界的に高まり、欧米列強に遅れまいとした旧海軍が、より若いうちから基礎訓練を行って熟練の搭乗員を多く育てようと、昭和5年に教育を開始しました。14才半から17才までの少年を全国から試験で選抜し、搭乗員としての基礎訓練をするもので、飛行予科練習生制度が始まってから、終戦までの15年間で約24万人が入隊し、うち2万4千人が飛行練習生課程を経て戦地へ赴きました。なかには特別攻撃隊として出撃したものも多く、戦死者は8割の約1万9千人にのぼりました。
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◇予科練のこと、もう少し詳しく
1930年、第一期生が横須賀海軍航空隊へ入隊しました。このとき全国からの志願者は5807名、その中で合格者は79名という狭き門でした。当時は航空機が非常に珍しかった時代。パイロットに憧れる少年たちが志願しました。一方で、1929年に始まった世界恐慌による不景気の時代でもあり、経済的に困難な少年が学費もかからず給料ももらえる予科練を志願したということもあったそうです。その後1944年には、朝鮮人・台湾人を対象にした特別丙種飛行予科練習生が新設され、各50名を選抜、鹿児島海軍航空隊へ配属しています(109分隊)。
戦況が厳しくなっていく中で、軍は特別攻撃隊員を練習生のなかから志願というかたちで募集します。募集とはいえ、志願しなければならない状況であったことでしょう。平均19歳10か月の若者たちが、みずからの死と正面から向き合って特攻に志願し出撃していきました。
◇阿見町
畑作が中心の農村地帯で未開地も多かった土地に、1921年、旧日本海軍が霞ヶ浦飛行場を開設、翌年に霞ヶ浦海軍航空隊が開隊しました。航空機が離発着できる広大な土地を確保できること、そして霞ケ浦では海上訓練もできることが大きな利点であったそうです。ここから阿見町は海軍の町と発展します。1923年には、土浦-阿見間に常南電気鉄道が開通。軍人や施設建設に伴う工事人さらに商人の移動により、阿見村の人口は急増します。中心部には新たに新町と呼ばれる町並みが形成され、軍人やその家族、一般の人々が生活用品を購入したりする商店街・飲食街になりました。また1929年には飛行船・ツェッペリン伯号が寄港、1931年にはリンドバーグ夫妻来日の地となるなど、航空に関する歴史的な場所にもなっています。そんな阿見町に1939年、神奈川県横須賀市から予科練が移転し、終戦まで全国の予科練教育・訓練の中心的な役割を果たすことになりました。戦中には軍事施設が集中していたことから空襲を受け、特に1945年6月10日の空襲では予科練習生や関係者など軍民合せて300人以上が死亡しています。戦後は旧海軍用地の多くが引揚者によって開拓されましたが、自衛隊の設置にともない、土浦駐屯地・霞ヶ浦駐屯地として再び町の一部が軍用地となりました。海軍の町として歴史を歩んできた阿見町ですが、現在はつくば霞ヶ浦りんりんロードの一部が通っていて、サイクリング推しの町にもなっています。
◇雄翔館
予科練平和記念館から徒歩1分。陸上自衛隊の敷地内にあります。予科練戦没者の遺書・遺品約1,700点が展示されています。お一人お一人についてパネルがあり、その方の戦果が記されていることが印象的です。予科練=かわいそう、ではなく、彼らの責任感、使命感、覚悟を知り、名誉を見てほしいということが書かれていました。
出撃前日にとられた4名の写真。肩を組んでみんな笑顔です。あす特攻とは思えません。戦争がなければ楽しい青春の日々だったはず。みずからの死と正面から向き合った彼らの犠牲の上に今がある。なんとも言えない気持ちになりました。