【鉄道自分史】#11「中学時代は鉄道が友だち」
写真は1973年、中学2年の初めごろの私です。家は2階建ての長屋で2階は6畳と3畳の二間でした。兄と時々部屋を交代していました。広いほうがいいと思われるでしょうが、兄が部屋に戻るときや母が物干し台に行くときの通り道になるのがデメリットです。この時は、6畳の方でした。壁の半分は鉄道のボスターや切り抜きを貼っていました。先日NHKの発達障害を扱った番組で鉄道好きの子どもの家の階段や壁も鉄道写真でいっぱいで、この写真を思い出しました。
そして中学時代友だちと言えば鉄道仲間であった双子の二人しかいませんでした。二人とは今も親交があります。それ以外のクラスメートとは話が合わず小学校の時仲の良かった友だちとも離れていくようになりました。運動部にも入りましたが、詳しくは言いませんがとんでもないところですぐに辞めました。それで、鉄道が一番の友だちだったのです。
鉄道に興味を持ったのは小学校5年生ぐらいで、大阪万博のころです。そのころから、蒸気機関車が都市部から次々と消えていき数年後には全国からなくなるということで世間では「SLブーム」と呼ばれていました。実際にこの目で蒸気機関車を見たのは、5歳ぐらいの時のかすかな記憶しかなく、一目見たいと思っていました。
すると、それまで気にならなかったのに夜になると家にいても蒸気機関車の汽笛の音が聞こえてきたのです。たぶん、関心を持つようになってテレビなどでも見聞きしていたので蒸気機関車の汽笛だと分かったのでしょう。母親に何度か「今、汽笛聞こえなかった」と訊いても、何故かまともに取り合ってもらえませんでした。多分当時の親は小学生が趣味的なことをすることに抵抗があったのでしょう。6年生になった4月、意を決して大阪市を出て東大阪市にある城東貨物線の方に行ってみました。東の方を走っているのは分かっていたので、いつも東に見える生駒山に向かっていけば線路に出るだろうと確信していました。やはり、それは正解でやがて線路が見えてきました。すぐ近くに踏切もありしばらく待っていると警報機が鳴りだしました。やっと蒸気機関車に会えると期待に胸を膨らませているとやってきたのは、真っ黒な機関車ではなく、なんと赤と白の機械がそのまま動いているのかと思うようなディーゼル機関車でした。その時の、落胆は今も忘れることができません。
当時の小学生には全く情報がなかったのです。たぶん1000円近くする鉄道雑誌にはだんだん減っていく蒸気機関車の情報が書かれていたのだと思いますが、本屋に行くこともあまりなかったのでそんな雑誌の存在すら知りませんでした。また、知ったとしても買う余裕もなかったでしょう。そのまま6年生の間は仕方なく過ごしていました。そして、興味は膨らむばかりでしたが中学生になった頃、蒸気機関車が八尾の竜華(りゅうげ)機関区というところに奈良の方から午後に貨物を牽いてやってくることが分かりました。また、日曜日には臨時で「D51伊賀号」という客車列車が関西本線を走ることもわかりました。カメラもおもちゃのような物でしたがその少し前に手に入れていたので4月の最初の日曜日自転車を走らせ家から一番近い平野駅の近くまで行きやっと恋焦がれたD51の写真を撮ることができました。こうして、鉄道100年の年1972年4月2日、今から50年前に鉄道写真の撮影をスタートしました。とはいうもののその後行ったのは8月、10月そして12月と忘れた頃にしか行けませんでした。実際に行けなかった代わりにいろいろなところから手に入れたポスターや雑誌の切り抜きを壁に貼って喜んでいたのがこの頃です。その後少しまともなカメラを手に入れ、1973年1月から9月の蒸気機関車廃止までの数か月は毎月のように、一人で行ったり、双子の鉄道仲間の友だちと関西本線方面に出かけました。
10歳から鉄道好きが続いているのは、やはり何か性格的なものや発達の偏り(発達障害)が関係しているのかも知れないと最近になって思い始めました。後何年あるか分からない人生ですが、もう一つの趣味であるアマチュア無線は遠くへ出かけられない時に楽しむとして、鉄道に関しては全国は無理としてもできるだけ未踏の路線へ出かけたいと思っています。