06. ゲリラ隊長 -わたくしの少年時代- 男性 六十八歳
わたくしは、明治三十七年(1904)の七月五日、釧路の春採コタン(現在の釧路市春採町)で生まれた。
その当時は、戸数五十という大きなコタンで、総代(酋長)さんは、ゲントクアイヌという長老であった。
春採コタンは高台地にあって、とても景色のよい所であった。この高台に立って眺めると、南方に広く金波銀波が、常におどる果てしない太平洋の海、また、北方遠くに見えるは、阿寒の神山といわれる大きくて美しいめおとの二山である。そして足もとには、清い水にあふれた春採湖が横たわり、わかさぎ、ふな、ぼら、うぐい、うなぎ、その他多くの小魚がすみ、むかしのアイヌの人びとは「ハルオト」(食糧の満ちる湖水)と名づけて呼んでいた。
ハルオトは、季節の渡り鳥も多くきて遊ぶ所であったので、わたくしは小さいころ、よくこの湖水にきて、いろいろな鳥の名まえや形を知ることができた。
わたくしが入学した小学校は、官立の土人小学校で、アイヌの子弟ばかりがはいる特殊な学校である。
わたくしは、学用品をふろしきにつつみ、毎日の通学が始まった。夏は、ぞうりや下駄ばきで、冬はわら靴という、当時としてはぜいたくの方であった。
土人小学校の校長は、N先生といい、漢学者では名高く、白ひげをのばしていた。
この先生の影響があってか、わたくしは、そのころから、アイヌの伝説を聞くのと、日本歴史の話を聞くのが大好きになり、興味をもちだしたのである。
コタンの古老たちのむかし話には、ひと言も聞きもらすまいと、目を光らせて聞き入ったりした。
「Tよ、おまえの祖先たちは、皆、大釧路の王様だった。釧路の国は、大きな郡が六か所もあって、一郡、一郡には、その地をまとめる酋長がおり、それぞれが、自分たちの郡を、平和にたのしくまとめていたもんだ‥‥。」
このような話を聞いていると、わたくしは、自分の祖先の人びとも、きっと西洋の王様のように、白くて長いひげをたれ、豊かな生活をしていたのであろうと、夢を広げてみたりした。
春採コタンから半道(約二キロメートル)ほど東の方に、仙台村という部落があった。ここには、仙台地方から開拓者として北海道へ渡ってきた和人たちが住んでいた。十軒ほどで、どの家もみんな草造りのものだった。
この仙台村の人たちと、コタンの人たちは、大人も子どもも、皆、仲良しで、常に行ったりきたりしていた。
ところが、釧路の町へ行くと、町の人たちは申し合わせたように、アイヌをバカ扱いにするのである。理由なきアッパク(差別)であり偏見なのである。
ある日、わたくしは母と共に、買い物に町へ出かけた。その帰り道のことである。
付近で遊んでいた和人の子どもたちが、
「アイヌがきたぞ。」
「やあい、アイヌ。」
「アイヌ‥‥。」
と、はやしたてた。
その当時は、まだ釧路の町の道路は砂利道であったので、その子たちは、石をひろって、わたくしと母の二人をめがけて、ビューンビューンと投げつけてきた。
わたくしの頭にはこぶができ、母の顔や手には傷がつけられ血が流れるという状態であった。
わたくしも母も、ただやられるがままに家に帰ったものの、母の姿を見ると、じいっとがまんしていられなくなってしまった。すぐ外へ出ると、下駄をぬぎ、着物のすそをまくりあげて、約三キロメートルもある釧路の町に向かって一目散に走りだした。
山坂道を一心に走ってきてみると、まだあの子どもたちが遊んでいる。よし、これ幸いとばかりに、あたりかまわず全力をふりしぼって、体当り、けとばし、突き倒し、素早く姿をかくしてコタンに走っていた。これで、やっと腹の虫がおさまったような気持ちになり、ほっとしたものである。
大正七、八年(1918、9)のころは、現在の釧路市南大通りと米町が、町の中心部になっていた。
この米町に、アイヌの子どもをいじめる番長がいた。
ある日のこと、わたくしの同級生の市と一年下の政がきて、
「米町の岩の野郎が生意気で、いつもおれたちアイヌをいじめつけ、中にはケガした者もいるんだ。だから、なんとかやっつけたいから相談にのってくれ。」
「岩というやつは、からだが大きく力も強く、米町の子どもたちはみんな、岩の子分になっている‥‥。」
という。
そこで、三人は岩征伐の相談を始めた。
市はからだも大きく力もあり、政は小がらだが敏しょうである。だから、政が、岩をおびき出し、わたくしが岩と一対一で戦う。もし、自分が負けそうなら、市は加勢して岩をやっつける、と決めた。
その結果はこうだった。
番長の岩は、完全にたたきのめされ、大声をあげて泣きだしてしまった。そして、
「今後は、絶対にアイヌの子どもをいじめたりしません。」
と三人の前で誓ったのである。
わたくしはこのときから、すっかりゲリラ戦の隊長になってしまった。
しかし、このことは、父母やコタンの長老に知られないようにした。そして、いじめられた仲間を見ると、ゲリラ行動を起こし、その指揮をとるようになっていった。
わたくしが、この行動の中から感じたことは、
''シャモとは、一人であれば子犬のようにベン(尾)をふり、それでいて集団になれば、あらわに、野良犬のようになって狂暴性をあらわす‥‥''
ということだった。
このころから、わたくしは、和人に対しての不信感が強まり、負けてたまるものかの心意気をさかんにするようになっていった。
ところで、わたくしの四代前の先祖は、大庄屋の要職におかれ、その地区のアイヌも和人も支配下にし、Sという和名をもらっていたという。その子のYは、釧路オタエトの網元をしていた。
きかん気な男で「和人の下で、どんな役でもできるものか、おれは、釧路の国六郡の王者の末孫だ」といって、和人がいう役職をきらい、九十九歳のとき春採コタンで没した。
このYこそ、名実ともに最後の釧路アイヌの酋長であった人である。
Yが元気な時代、アイヌにも日本の姓が定められるようになった。このとき役人に、
「おまえは、なんという氏名をつけるのだ。」
と聞かれ、
「おれは、日の本とつける。」
と答えて、いい争いになってしまったそうである。
役人は、
「日の本は、日本となる。日本は国の呼称だからだめだ。」
といってひかず、Yは最後に、
「だめなら勝手にしろ。おれは、和人の名まえなんかいらない。」
といって、それ以降、とりあおうとしなかった。
そこで役人は、日の本ならぬ「山本」と勝手につけてしまったということである。
Yの子どもは、わたくしの父のTで、Tも親に輪をかけたきかん気な男であった。
わたくしは、この血をうけて、差別のはげしい時代の中で、きかん気な少年時代をおくることができたのである。
年月のたつのも早いもので、わたくしも今や、七十歳に近い古老になってしまったが、そのきかん気は、今なお健在である。
*** 1 今日まで生きてきて
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