41. 雷神の怒りにふれた姉妹
大正七年(1918)の春、三月、わたしが右左府村千呂呂(現在の日高町千栄)の高山に働いている姉を尋ねた時のことでした。
叔母と連れ立っての、山合いの小道を沙流川添いの峡谷と、残雪との調和の美しさに目をたのしませる旅でした。
小道の半分ほどが残雪で、大変歩きにくかったことも記憶しています。
密林の中からは、小鳥の鳴き声が、また小さな動物たちがわたしたちに驚いて逃げていくというのどかな風景でした。
今の国道は、対岸に変わりましたが、振内市街の外れ、農協スタンドの前から山に登り、ニセウの河口へ出る道路だったと思います。
わたしの背丈ほどもある大岩石が山頂から河原にかけて散乱していました。
ふと、叔母は、この岩石を見て思い出したのか、わたしに、ここの伝説として残っている「チエンテコタン」(こわされた村落)の”メノコユーカラ”を聞かせてくれました。
沙流川のせせらぎと、叔母の美しい声とに、わたしはなんともいえない幽玄の世界へとさそいこまれていきました。そのとき十七歳のわたしでしたが、五十余年過ぎた今でも、叔母の語ったユーカラとともに、そのときの山々の景色まで頭の中に残っているというのは不思議なくらいです。
神への信仰とともに、アイヌの血が、アイヌの血に怒りの火をつけたのでしょう。
そのことは、姉がわたしを呼んだ目的が、姉に対する反感とシサム(和人)に対する反抗に発展することを、神ならぬわたしは知るよしもなかったのでした。
大分前のことでした。ある有名な大学の先生で、アイヌ研究では大家といわれている人に、叔母から聞かされたユーカラを語りました。
ところが、この先生は不快な顔をしました。きっと、先生は、先祖のシサムの侵した悪にふれられた部分があったので、イヤーな顔をしたのでしょう。そこでわたしは、もう二度とだれにも聞かすべきではない、と決心したのですが‥‥。
*
シシムリカ(沙流川)の一番奥のコタン(池売)で、わたしたちは何不自由なく楽しい生活をしていた。
ある秋に近い日の夕方のこと、一陣の風が巻き起こり、真っ黒い雲が現れるとともに雷鳴が鳴り響いた。
コタンの長老が、コタンへ伝令を走らせた。
「皆の者、仕事をやめてチセ(家)にはいって静かにしておれ。雷神の怒りにふれたら大変なことになるぞ。皆の者、長老の命令だぞ。」
と。
コタンの中の者は、仕事をやめてチセに待避し、静かに雷鳴のたちさるのを待っていた。
そのとき、わたしの姉が、
「どんなカムイだって、仕事をして悪いというはずがない。そんなことは迷信だ。」
というと、刺しゅうをしていた針に糸をつけたまま、天に向かって投げつけた。
わたしもまた、姉に同調して、イテセ(織物)をしていたので、手にもったキナ(敷物)に水をつけて、天に向かって振りまわした。
このとき、しずくが雷神の顔にふりかかった。
烈火のように怒った雷神は、ものすごい火柱を大地にたたきつけるとともに、ポロシリ(日高山脈の高峰)の頂上から大きな岩石を雨のように降り注いだ。
ことばではいい表せないような天変地異が、コタンに引き起こされた。
わたしは、たたきつけられたのか投げとばされたものなのか、また、何時間か何日間か‥‥、なにもわかることなく気がついたときは、コタンの影も消えて焼けこげた柱だけがさびしく林立していた。
生き残ったのは、ただ、わたしたち姉妹と父親だけであった。
父は思いなおしたように、わたしたちにいいわたした。
「カムイイルシカレ(神の怒り)させた責任は、おもえたち二人にある。二人のためにコタンは滅亡した。今後、再びこのようなまちがいが起こらないようにいい知らせるためにおまえたちは旅をしろ。」
いわれるままに、わたしたちは旅に出る決心をした。
父に別れを告げて出発した。
歩いていると、尿意をもよおしたので、わたしたちは道端の草むらにはいって放尿した。そのとき、一陣の風とともに一枚のトン二ハム(柏の葉)が、わたしの局部にへばりついた。姉の方にはヤムニハム(栗の葉)が同じようにくっついたのである。
あまりにも不思議な出来事に、わたしたち二人は父のところへもどり、このことを話して、父の意見を聞いた。
だまって話を聞いていた父は、
「そのことは、この上、またも凶変の兆候だと思う。トンニハムのおまえは、どうにか生きていけるが、姉のことが案ぜられる。おれはこのコタンとともに、この地に埋もれておまえたちの身を守る。そして、死んでいった多くのコタンの人たちのところへおわびにいく。」
というと、かくし持っていたブシ(猛毒の草の根)をのみくだしてしまった。
二人は泣くなく父の死体を葬り、住みなれたコタンをあとに、行先も知らない遠い旅路へと旅立った。
毎日毎日、二人は励まし合い、野獣の恐怖にたえながらの旅だった。
ある日、一つのコタンにたどり着き、酋長の家と思われる一軒の家に宿をもらった。
りっぱな老夫婦と若者が一人住んでいた。
わたしたちは、イケウリコタンの出来事、父にさとされて旅にでたことなど話した。老夫婦はうなずきながら聞いていたが、
「それは、大変ご苦労なさった。よろしかったらいつまでも‥‥。」
と、やさしくいたわってくれた。
久し振りにあたたかいウタリに接した二人は、楽しい一夜を過ごした。
翌日、家族の引きとめるのを振りきって旅立とうとしたら、姉は、この家の男らしい若者に気をひかれたのか、または、たくさんならべられた宝物に心をうばわれたのか、この地に残りたいといいだした。
わたしは、姉とも別れなければいけなかった。
皆に別れを告げて、わたしの旅はなおつづいた。
ずっと後になって聞いたことだったが、姉には予想もつかない不幸が振りかかっていた。酋長一家の財宝をねらうほかのコタンよりトパッツミ(襲撃)が行われたのだ。コタンはもちろんのこと、酋長夫婦も姉も若者も皆殺しに会ってしまったという‥‥。
何日かつづいたわたしの旅は、ある日、大きな街にたどり着いた。見るもの聞くことすべて珍しいことばかりであった。
ここは「会所」とか「場所」とも呼ばれ、松前の殿様がアイヌ地を適当に区分して、知行地として家臣へ与え、ここで、アイヌとの物資の交換を行ない、また、アイヌを使役にして漁業を行い、多くの物資の集散地にもなっていた。
大きな船の出入りもあり、たくさんの武士、町人(和人)、アイヌが住み、大変な賑わいだった。
わたしは、一番大きな役所のような所で使われるようになった。
仕事にも馴れ、どうにか不自由のない生活ができ、姉のことやら、焼けてなくなったコタンのことなど、思い出すような落ち着きをとりもどしていた。
ところが、わたしの幸福はいつまでもつづかなかった。
ある夜半の出来事であった。
アイヌが反乱を起こした。
会社の役人やシサム(和人)の、つね日ごろのアイヌに対しての酷使、差別への不安や怒りが爆発したのであった。使役されているアイヌが中心になって、近隣のコタンのアイヌも相呼応して立ちあがったのだ。
アイヌの中で、このことを知らなかったのは、わたしだけだった。
この反乱で、シサムは全部殺されたのである。
豊富な食糧と自然の中で、アイヌはなんの不自由もない生活をつづけて何千年、何万年とすごしてきたのである。
ところが、日本内地から罪人が流されてきたり、北海道の資源を目的とした文化的にも多少すぐれた和人が渡ってきたために、アイヌの暮らしが苦しくなってきたのである。その上に、生産のためにアイヌは働かされた。好むと好まざるとにまったくかかわりなく、強制労働をさせられたのであった。
アイヌの子どもが大きくなって、鮭を一匹背負えるようになったら、強制的にかり出され、薪取り搬出、漁労などに使役され、腰が曲がって働けなくなった老人が病気になったときだけ、解放されてコタンに帰れるのである。
給与は、漆器の入れ物か、切れもしないアイヌ刀だけ‥‥。メノコは、三人の子どもが生まれたらコタンへ帰された。
当時の労働源は、アイヌだけであった。そのためアイヌは、子どもが生まれたら山奥にかくし育てた。しかし、その大半は、猛獣のエジキになった‥‥と。
また、そのころのコタンには、働ける若者は残っておらず、老人と子どもだけで、食糧を得るにも大変困難であった‥‥と。
追いつめられた最後の反抗であったのだ。
このときの夜襲には、一生働かされて与えられたきれないアイヌ太刀で、シサムにひと太刀むくいたいと、老骨にむち打って参加したエカシもいた‥‥と。
シサムのすべてが殺されたが、わたしはアイヌなので見逃してくれた。
ところが、どこにかくれていたのか、一人の男の子(シサム)が恐ろしさに震えながら、わたしにしがみついて助けを求めてきた。
わたしは、子どもに対する愛情から、民族のにくしみをのり越えて”この子を助けよう”と決心した。
モウル(女の子)のかげにかくして、夜陰にまぎれて逃げのびた。どこをどう迷い歩いたかを知らず、子どもと二人の生活がつづいた。
しかし、シサムの血をうけた子どもは、助けの恩義にそむいた。
アイヌの行なった残虐に対するにくしみがわたしを裏切った‥‥。
松前の殿様に、アイヌの反乱を注進したもの‥‥と。
すべてに劣勢だった松前藩は、アイヌに対して、和睦の使いをだした。そして、首謀者と思われるアイヌを会所に呼び集めた。
悪知恵にたけたシサムは、酒宴を開いてアイヌを歓待した。
酒をごちそうし、日頃、暴悪なシサムが、大変な低腰な態度で接たいした。
正直者のアイヌの面々は、有頂天になって踊り舞っていたことは想像にあまりある。
ところが、前々からたくまれ、用意されているものがあったとは‥‥。正直者のアイヌには知るよしもなかった。
座敷の下には穴蔵の牢があり、いっせいに畳がぬけて落ちると同時に、上から材木の雨が降り注ぐのだ。
”アッ”という間の出来事だった。
招宴中のアイヌたちは、穴蔵の底で押しつぶされ、絶命してしまったのである。
警備にあたっていた茂平という町人の前に、目、耳、口から血をふき出した形相ものすごい一人のアイヌが、地底からはい出してきた。茂平は、驚きと恐ろしさのために、このアイヌを一太刀のもとに殺してしまった。
後になって、仲間の話し合いの中で、あの堅固な牢から生きてきたということは普通のアイヌではない。きっと、カムイにちがいない、と。それなのに、茂平は斬ってしまった。恐ろしいことだ、と語られていた。
わたしは、この浜辺の一軒家で、貝を拾い、コンブを拾ってやっと生きつづけている。わたしもすでに年老いて、身寄りもないままに不自由な体を横たえ、生きる屍となってしまった。
ウタリを裏切った罰でもあるだろうし、雷神の怒りにふれた罰でもあろう‥‥。
わたしは、苦難に満ちた生涯を語り、これからの若い人に、わたしの歩んだ道を再びくり返してもらいたくない‥‥。
そのために、わたしはこのことをいい残して死にたい。
老婆は語り終えた。
*
長い長い物語を聞きながら、わたしは旅の疲れも感じませんでした。
沙流川もだいぶ上流へきたのか、切り立った断崖の下を通り、道はだんだん険しさを増してきました。
姉がわたしを呼んだ目的は、姉が働いている鉱山の上役の嫁になったら、ということでした。
「将来、出世して、ニシバ(親方)になれるりっぱなシサムだから‥‥。」
と、姉はすすめてくれました。同行の叔母も姉といっしょにすすめました。
わたしはなぜか、この話を、すなおに受け入れることができないのでした。
旅の途中、叔母に聞かされたメノコユーカラの筋書が、わたしをそのように考えさせたのかもしれません。
わたしは、結婚をことわりました。
姉の働いている飯場にいて、一週間ばかり坑内にはいって働き、当時のお金で、三円 五十銭もらい、よろこんで帰ったことも記憶しています。
そのつぎの年の十二月、わたしに結婚を申し込んできたのが今の夫です。
忘れもしない三十一日の大みそかの晩にわたしは嫁入りをしました。
石油缶の底にお湯を入れ、台の上に袋に入れた粟をおいた当時のセイロウ代わりの道具を使って、餅をついたのです。おそらく、二年越しの餅つきではなかったでしょうか。
年が明けたら十九歳になるというので、急に嫁に行かされたのだったろうね‥‥。
なお、後でフチ(祖母)に聞かされましたが、たくさんのアイヌが落し穴に落とされ て殺された穴を見た、といっておりました。その地名は残念ながら聞いておりません。この会所では、その後、アイヌを酷使しなかったそうです。
フチも、内地で妻を残してきた会所のだいぶエライ役人の妾になったもののようでした。
「外の者は、子三人を生んだらじゃま者とされ、故郷へ帰されたが、わたしだけは帰されず、四人生んでやっと帰ることができた。」とも話してくれました。また、
「当時のアイヌは、他人種との婚姻を極度に嫌い、これを侵した者には最大の刑罰を与えたものだが、わたしはすきこのんでシサムコロ(和人との結婚)したのではないことをおまえたちも知ってほしい。」
ともいっておりました。
きっと、シサムコロは、至上命令だったのでしょう。
フチは、シサムコロしたことが、最大の恥辱だったのか、何度かこのことをくり返していました。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?