28. 北海道とアイヌ          -アイヌ問題をめぐって- 若林 勝

 「北海道」というようになったのは明治二年(1869)からです。それまでは「蝦夷」とか「蝦夷が島」と呼んでいました。

 この北海道に、アイヌ民族が、いつごろから住み、生活するようになったかは、まだ、はっきり知られていませんが、そうとう古くからであることはまちがいありません。

 ですから、アイヌの人たちが「北海道はアイヌモシリ(アイヌの国)であった」というのは、まさにそのことばのとおりなのです。

 北海道に和人が渡ったのは、今から七百年ほど前といわれています。しかもその和人は、幕府から”島流し”をいいわたされた人びとです。

 アイヌが、はじめて和人にあったとき、「おれたちはアイヌだ」といい、和人を「シサム」と呼んだ、といわれています。

 アイヌだ、ということは「人間だ」という意味です。シサムとは「隣人」ということばです。

 アイヌの人たちは、見知らぬ和人を”シサム”として親しく迎えたにちがいありません。流されてきた和人にとっては、ただ救われた思いで、自分からその生活の中にとけこんでいったことでしょう。

 このような状態では、和人とアイヌの間に差別の問題など生じることはありません。

 このころのアイヌ社会は、コタン中心の原始生活でした。コタンといっても、五戸ぐらいがまとまってできていたり、二十戸ぐらいによってできていたりと、さまざまでした。百戸以上まとまったという大きなコタンはなく、三十戸ほどまとまっていると大コタンであった、といわれています。

 北海道には、このようなコタンが数多くあって、それぞれのコタンが争うことなく、平和に暮らしていたのです。

 山には熊や鹿などの多くの動物、川や海には多量の魚、というように、恵まれた大自然の中で生活していたのです。

 楽園であった北海道に、争いが起こるようになったのは、五百五十年ほど前からといわれています。そのころになると、急激に和人の移住者が増え、函館から東は鵡川、西は余市の方まで足をのばし、交易を行ない、また漁業も営むようになっていきました。

 と同時に、アイヌへの差別の姿勢が目につくようになるのです。

 なぜ、差別感が生まれたのでしょうか。

 その原因はいろいろあると思いますが、まず考えられるのは、文化の差、生活の違いといえるでしょう。

 当時の和人社会の生活は、米を主食とし、鉄器を用い、文字をもち、住む家にしても木造とし、また貨へいによる売買も進んでいた‥‥、このような生活を行っている和人にとって、かやぶきのチセ(家)で、石器を道具とし、田畑をつくることを知らず‥‥、と、その生活を見たとき、一方的に侮蔑感が、そして差別意識を、とつくっていったのでしょう。人間を疑うことを知らない素朴なアイヌをよいことにして、和人のずるさ、悪知恵を働かせていったのです。

 アイヌの側から見ると、和人の進んだ文化に目を光らせるものがありました。たとえば、刀や槍など、鉄器でつくられたものがその一つです。狩猟生活において、きれる刃物こそ必要なのですから。

 長禄元年(1457)にアイヌと和人との間に”コシャマイン戦争”が起こりましたが、そのはじまりは、マキリ(小刀)からです。

 箱館(函館)に住む鍛冶屋(和人)に、アイヌがマキリを頼みました。自分たちではつくれないからです。ところがその鍛冶屋は約束した日になっても、さっぱりつくっていません。再三再四さいそくされてやっとつくったのですが、それはおそまつなマキリでした。それでいてなお、約束の値段よりはるかに高く要求してきました。これに対し、苦情をいうのは当然でしょう。しばしいい合っていましたが、鍛冶屋は「アイヌのくせに、なまいきなことをいうな!」と、そのマキリで刺し殺してしまいました。

 この事件を知ったアイヌの人びとは、今まで受けてきた和人の悪らつな行為に、怒りの声をあげました。積もり重なっていたふんまんが各地で爆発したのです。

 東部の酋長コシャマインは兵をまとめ、つぎつぎと攻め入り、和人を全滅の危機にまでおい込みました。しかしながら、最後の戦いになったとき、コシャマイン父子は和人の矢に射たれてしまい、兵はまとまることなく敗北においやられてしまいました。

 戦いに負ける、ということは、支配されるということです。和人の身がってなふるまいが、だんだんと大きくなっていきました。アイヌに対しての人間無視の意識を、はっきりと現していったのです。

 コシャマイン戦争の後にも、和人の横暴さに耐えかね、各地でもめごとが起こりましたが、どれも和人の力に押さえられてしまいました。

 和人は支配力を強め、思うがままに広げていったのです。

 寛文九年(1669)のことです。

 日高地方に住む大酋長シャクシャインが、「おれたちの国の平和を守るために、悪いシャモをおいだすより他にない。」と、やむなく兵をあげました。この声に、多くのアイヌはたちあがり、北見、釧路地方からもぞくぞくと集まってきました。

 和人への怒りとにくしみが、そして、自分たちの生活を守り、アイヌモシリを守るために、シャクシャインのもとに結集したのです。これこそ、アイヌ民族にとって”自決の戦い”であったのです。

 シャクシャインの率いる軍勢は強く、つぎつぎと和人の館をうちつぶしていきました。松前藩は、この勢いを幕府に報告し、援軍のくるのをたよりにただ防ぎょするだけの状態です。

 結局は、コシャマインのときと同じように、あと一息と迫ったとき、鉄砲を武器とした幕府軍が到来し、戦いは敗北に転じてしまうのです。

 鉄砲と、弓で引く毒矢では、大きな差があったでしょうし、またそれまでつづけてきた長い戦いの疲れも敗戦につながったのでしょう。

 和人の支配は、より広まっていきました。広大な資源に富んだ北海道を自分たちの支配下にしようと力を注いだのです。

 商人の進出もこのころから急に多くなりました。

 商人が相手にするのはアイヌの人たちです。もうけることを第一義にしているのですから、相手のことなど考えず、ごまかしに徹しました。

 例えば”アイヌ勘定”が、その最も良い例です。

 十のものを数えるのに「はじまり」といって一つ取り、五まで数えると「まんなか」といって、また一つ取り、十まで数えると「おしまい」といってさらに一つ取る、結局十三取るといったごまかし勘定です。相手の無知を良いことに正々堂々とまかり通っていたのです。

 商人たちは、取引ばかりでなくほかにも手を広げました。魚のとれる海辺を自分たちのものに取りあげ、多くのアイヌを奴れいのように使いました。

 天明九年(1855)、徳川幕府は、北海道を松前藩の手から幕府直轄の管理へと移しました。

 外国からの侵略・攻撃があったとき、松前藩の力では守りきれないからです。

 このとき幕府は、アイヌに対して、つぎのようなことを示しています。
 一、田畑をつくり、穀物を主食にして生活を行うようにする
 一、禁じていた和語(日本語)の使用を改め、できるだけ和語を使う
 一、生活、風俗は、早く和人と同じようになるよう心がける。女性の風俗(入れ墨や耳などの習など)は、なおさらのこと。

 そのほか、まだ、いろいろと掲げていますが、幕府が行なおうとしていたことは、一口にいって「和人たれ」ということです。

 松前藩のとった和人とアイヌを完全に区別し、一切、和人と同じにすることを禁じていた政策に、まったく反対の立場をとったのです。

 なぜでしょうか‥‥。

 北海道を自分たちのものにするためには、アイヌを和人たらしめんことが最も重要であったからです。

 なぜなら、外国の勢いが北海道に伸びてきたら‥‥、そして、和人への不満しかもたないアイヌが大挙して外国側に加勢したとしたら‥‥、アイヌを同化し、和人意識を養うことによって、守る側に立たせることができるからです。

 幕府は同化に力を入れましたが、そうかんたんにはいきませんでした。

 長い歴史の中でつくりあげられた風俗、生活習慣、そして、ことばまでも、和人と同じにせよ、といっても、そもそも無理なことです。また、それらを一変してしまうことは、生活そのものをとりあげてしまうことになるのですから。

 同化への道は、じょじょに進められていきました。

 しかし、この中で、教育(教養・知識)という点では、なに一つ取りあげようとはしませんでした。

 明治元年(1868)、明治政府が確立されました。

 政府の力を注いだ政策の一つに「北海道開拓」があります。

 この政策にのっとって、多くの和人が開拓団を組織し、北海道にのり込んできました。しかし、このことはアイヌにとって、なにもよいことではなかったのです。

 アイヌのある老人は「明治政府は、おれたちの土地を完全にうばい取り、おかにあがった魚同然にしてしまった」といいます。

 幕府が管理していた時代は、広大な北海道だけに、目の届かない地域がまだあったし、それらの土地を求めればなんとか生きていくことはできた‥‥、ということなのです。

 明治政府になってからは、北海道を十一ケ国八十六郡に分け、開拓と管理の体制を整えていきました。

 ところで、それがどんな体制であろうと、アイヌの生活が完全に保障され、人権が尊重されるものならば、問題はなかったはずです。

 氏名を和人名につける(明治六年・1873)、アイヌと呼ばずに「旧土人」という(明治十一年・1878)としたところで、肝心なところが改まっていない以上、同じことなのです。

 和人への同化を計りながら、アイヌの首をしめつけていた、というのが、その実体でした。狩猟民族であったアイヌに、農耕生活をせよ、といって土地を与えたとしても、すぐにできないことはわかりきっています。物々交換の自然経済を脱したばかりのアイヌに、和人と同じように貨幣経済を行なえ、といったところで、これも時間のかかることです。それになお、管理者たちは、狩猟地域を定め、アイヌが用いてきたアマック(仕掛け弓)などを禁止し、違反者には重い刑を課せました。また、魚のとれる漁場などは、当然のように和人にとられていきました。

 なにごとも開拓者優先であったのです。

 ですから、開拓者がどんどんはいってくるということは、アイヌにとって、苦境へおいやられれる結果になっていったのです。

 クワを振るっても不馴れで思うようにいかず、狩りも今までどおりできない‥‥、となれば、和人に雇われて働くよりほかありません。

 雇う側は、そんな事情をよく知り、安い賃金で働かせました。和人と同じ仕事をしても、その賃金は半分にもなりませんでした。それでも、生きるためには働かなければならなかったのです。

 ほとんどの和人は、アイヌの貧困さを、教育を受けることのなかったアイヌを、和人の文化を知らないアイヌを、一方的に偏見の目でとらえました。「アイヌは無知!」といって‥‥。

 アイヌ勘定は大きくまかり通り、ごまかすことが和人には、ごくあたりまえ、といった態度が、どこにでも見受けられました。

 開拓団の来道は、生活の基盤を失うばかりでなく、差別と偏見の壁をより厚くしていったのです。

 明治三十二年(1899)、政府は「北海道旧土人保護法」という法律を制定しました。

 この保護法をみると、農耕と教育に重点がおかれています。

 土地を与え、田畑をつくらせ、一所に住まわせ、という「農民アイヌ」を積極的に押しすすめようとしたものです。

 教育については、土人学校を建て、ここでアイヌの子弟を学ばせながら、天皇すうはいの日本人意識を養う、ということです。

 実際に行われた教育は、読み・書き・そろばん、それに修身が中心で、とくに目につくのは、”和人こそ、すばらしい、優秀な人間である””はやく和人のようになれ!”ということです。アイヌを劣等民族化した完全な差別教育といってよいでしょう。

 あるアイヌ系の人は、保護法について、つぎのようにいいます。
「旧土人保護法によって、土地が与えられ、農耕に従事せよ、といっても、その土地は、畑になるような土地ではありませんよ。よいところはシャモが先にちゃんととっているんですから‥‥。荒れはてた原野で、畑をつくるということは、そりゃ大変なことでした。それに、土地が与えられたといっても、あくまでもその土地の所有権は国のものであって、アイヌ自身のものにはならなかった。」

 また、ある人は、
「旧土人保護法という美名のもとに、われわれアイヌを完全にしばりつけてしまった。」
とも、いいます。

 この保護法は、アイヌを人間として認め、その生活を守る、というものではなかったのです。和人同化を計るものであったのです。和人が自分たちにつごうよくつくった、といっても過言ではありません。

 アイヌの人たちは、与えられた土地でクワを振るいました。貧困から抜け、生活を安定させようと汗を流しました。しかし、北海道は気候的に寒く、農耕条件としては悪いところです。本州からわざわざクワをもって開拓へとのり込んできた和人でさえ、この困難に耐えきれず、土地もクワも捨てて、郷里へ帰ったり、日雇労務者になったりした人たちがたくさんいたのですから‥‥。

 アイヌの人たちは、貧困の中にがんじがらめにしばられていきました。

 よく「貧困が差別をつくる」とか「無知が差別を生む」ということばを聞くことがあります。しかし、それは、差別をつくる根元ではありません。

 アイヌの中にも、貧しさの中から苦労を重ね、生活の安定を確保し、多くの教養を身につけた人もいます。しかし、差別からの解放にはなりませんでした。差別は、いくら自分が努力しても、周囲の和人が差別と偏見をもっている限り、完全にぬけきることはできないのですから。

 こんな話を聞きました。

 日露戦争で足を痛めてしまった老人が、
「軍隊生活が一番たのしかった。軍隊というところは、いっしょうけんめい努力して成績をあげればそれを認めてくれる。階級もあがる。軍隊ではシャモとかアイヌとかいうまえに階級が絶対なんだ。階級が上であれば、どんなシャモだって、なぐりつけることはできるんだ‥‥。白いメシだって食えるしな‥‥。」
と、いうのです。

 このことばの底には、生活の苦しみ、和人への差別のにくしみがはっきり物語られているのではないでしょうか。

 開拓地北海道には、日増しに和人の数がふえていきました。

 アイヌへの偏見の目も、よりつのるばかりで、和人のおかした罪が、アイヌへかぶされていくということも、よく起こりました。
”アイヌは貧乏だ、どうして、おれはアイヌになんかに生まれてきたんだろう‥‥。おれは、シャモになりたい‥‥”

 こんな気持ちが、自然にアイヌ自身の心にやどっていったのです。アイヌがアイヌを否定する姿が目に見えるようになったのです。

 旧土人保護法の制定当時、アイヌの人口は約一万七千人といわれています(保護法制定のときの資料による)。

 昭和六年(1931)、北海道アイヌ協会が創立されました。

 このときの協会理事長になったMさんは、
「アイヌ民族の向上発展と、その福利厚生を企図する使命を帯びて本会は誕生した。」といっています。

 北海道庁も、協会創立に協力しています。
 多くのアイヌの人たちが、この協会に期待するものは大きかったことは確かです。

 しかし、この協会は、アイヌの人たちがなによりも望んでいる人権の回復、差別、偏見をなくするために立ちあがったものではありませんでした。

 協会は、設立の趣旨にもとづき、教育に、貧困対策にと活動をみせましたが、その効は薄いものでした。
「生まれたときは貧乏で、ものごころついたときは差別に泣かされた‥‥。」
と、だれしもが口をそろえていったことばです。

 しかし、このことばは、その当時ばかりでなく、現在でもよく耳にすることばです。

 日本が、悲惨な戦争(第二時世界大戦)に突入(1941)したころ、北海道に多くの朝鮮人がきました。ほとんどが労働力不足をおぎなうためです。

 その人たちの中から、つぎのような話を聞きました。
「わたしら朝鮮人は、日本人に徹底的に差別され、苦しめられました。しかし、わしは、わしらの下にまだアイヌがいる、わしらはアイヌよりも上なんだ、と自分にいい聞かせ、歯をくいしばって生きてきました‥‥。」

 このことばでわかるように、和人ばかりでなく、同じ和人から差別されている朝鮮人からも差別の目で見られていた、ということなのです。

 昭和二十年(1945)、日本は戦争に負けました。

 二年後の1947年には、これからの日本の進路を定める”日本国憲法”が制定されました。

 絶対であった天皇を象徴とし、もう二度と戦争を行わないとし、そして、人間はすべて平等であると人権の尊重をうたったものです。

 日本は、国民の一人ひとりをだいじにする民主主義の社会になったのです。

 この憲法を、社会を、だれよりも先によろこんだのは、苦しみと悲しみに耐えしのんできたアイヌの人たちであることは、いうに及びません。
「おれたちも、これで、ほんとうのアイヌ(人間)になれるんだなあ、シャモに差別されずに生きることができるんだなあ‥‥。」

 こんなことばが、あちこちに聞かれました。

 生きることへのよろこびを、胸に大きくふくらませたのです。

 民主主義といわれる社会になって、もう二十数年の年月がたちました。たしかに世の中は変わりました。

 しかし、差別は根強く、今もなお生きているのです。偏見と差別に、貧困に苦しむアイヌの人たちがまだ、多くいるのです。

 なぜでしょうか‥‥。

 いくら世の中が変わっても、アイヌを取りまく和人一人ひとりの見つめる目が、そして、意識がなにも変わっていないからです。

 このことは、アイヌばかりでなく、ほかにもいえることです。

 人間は、身なりや顔で、また、皮膚の色や生活のちがいで、どうこういえるべきものではありません。なぜなら、人間として同じであるからです。

 そして、人間のもっともたいせつなものは心にあるからです。
しかし、一目見て、よいとかわるいとか、自分のつごうのよいように考えたり、とらえたりする姿勢が、今もなお、多くの日本人に見られます。

 この姿勢が改められない限り、差別の歴史はつづくのです。

 よく「北海道は百年にして、すばらしい発展をとげ、今日に至った‥‥」といいます。確かに、ことば通り、その発展はすばらしいといえるでしょう。

 しかし、その発展のために、最もぎせいをしいられたのは「アイヌ」であったということなのです。

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