35. ことばの命・アイヌ語 民芸品製作 四十六歳
私は大正十五年(1926)、S、はTの子として生まれました。
当時、家には、兄が二人、姉が一人、そして、祖母がいました。
兄が二人いるということで、私は親戚の家の養子にとなり「K」という姓になったのですが、どういうわけか、その家には一度も行ったことがありません。
父はお酒のみで、子どものころは不和な家庭に育ちました。でも、そんな家の中でも、祖母はいつも「むかし話」をしてくれました。
今、思うと、そのむかし話が一番たのしかったなあと思います。
ですから、アイヌ語はそのとき覚えました。ある意味では、日常使っている日本語より先に覚えたアイヌ語を、母国語だと思うときもありました。
小学校三年のとき、綴方(作文)の時間に、
”このごろはすっかり寒くなって、川にはモンペが流れています”
と書きました。
冬近く、川面を流れるざらめ状の氷のことをアイヌ語で「モン(流れる)ペ(物)」というので、それをアイヌ語と知らずに書いたわけです。先生は、そこへ赤線を引き”すが”と書きそえてくれました。こんなことは始終でした。
私の通った学校は二風谷小学校で、アイヌの子どもの方が和人の子どもより多かったので「アイヌ、アイヌ」といじめられたことはなかったように思います。その点、二風谷のアイヌの子どもたちはしあわせであったと思います。ただし、数は多くても、貧乏者が多いという肩身のせまさはありましたが‥‥。
私は、子どものころでも、青年時代でも、アイヌのことがすきであったわけではありません。
ことばを覚えたのも祖母といっしょだったからでしょう。小学校を終わるまでには、アイヌ語を、ほとんどマスターしてしまいました。
私は、小学校を卒業すると、すぐに浦河営林署の造林人夫として働きに行きました。そのころ、一日働いて”一円三十銭”です。飯場から飯場へと造材山をわたり歩いたものです。
昭和十六年(1941)から十九年の秋まで、炭焼きもしました。このとき、炭焼き小屋で、祖母といっしょだったので、毎晩毎晩むかし話を聞きました。
私が片手に本を持って読んでいても、目の不自由な祖母はそれを知らずに語っているのです。話が終わり、うっかり私が、どうもありがとう、とアイヌ語でいわなかったりすると、叱ったものでした。
このころの祖母の話は、同じ話のくり返しが多くなっていました。なにしろ百歳を過ぎていたのですから無理もありません。
その祖母が、昭和二十年(1945)一月に亡くなりました。我が家から急にアイヌ語が消えていった思いになりました。
しかし、私がアイヌ語を知っているのですから、父はそれ以上に達者であることがわかるでしょう。
ときどき、我が家を訪ねて、××大学の偉い先生といわれてる方々がきていました。そんなときに私が居合わせると、私は、
「今さら、寝た子を起こすようなことはしないでくれ。アイヌのことを、あなた方はほじくってどうするのだ。もうこないでくれ!」
と、けんか腰になったものです。
先年、亡くなられた、北海道大学の教授をしていたK先生にも、その調子でやったものです。
ずうっと後になって、Kに会ったとき、先生は、
「Sさんのところへ行きたくても、君がいると思うと気が重かった‥‥。」
と、いっておりました。
あのころの私は、ただ、アイヌのことを調べにくる人が憎らしかったのです。
それにしても、二風谷へは、学者とか研究者がよくきたものです。そして、Nさんのところとか、私の父のところへたずねるのです。ですから、私はいくらそういう人が嫌いでも、会う機会が多くなっていきました。しかし、その先生方が何を書き、どんなことでアイヌに役立つのか、さっぱりわかりませんでした。たまあに、何やら書いた本が送られてきても、アイヌが一番知りたいところのアイヌ語のページがローマ字で書いてあるため、何がなにやらさっぱり読めません。ただ、宝物のようにしまい込むだけでした。
もし、むかしからアイヌを研究した学者が、アイヌのことをもう少し考えてくれ、アイヌ語のところをカタカナで書いてくれていたなら、その本や研究論文を読むことによって、アイヌ語をアイヌ社会に還元することができたし、また、アイヌ語が現在ほど急速に村から消えることなく、まだまだ生きながらえたと思います。
私は、造材山の親方になることが夢でした。ですから、ローマ字など勉強する必要がないはずです。それなのに私は、ローマ字と取り組んでいました。学者の書いたアイヌ語を読みたいのです。それに、アイヌの手によって書かれたアイヌが読める本が書きたかったのです。
私は、ウエペケレ(むかし話)の本を書きました。アイヌがアイヌ語を取りもどし、ことばの命をのばすために役立つと思ったからです。
ところで、アイヌ嫌い、学者嫌いであった私が、なぜこうまでになったかというと、つぎのようなこともあります。
私が二十四、五のときです。
東北大学のロシア語の先生が、私の家に数日泊り込んで、父からアイヌ語を聞きとっているのです。
私はそのころ、昼間は家の畑仕事をしていました。ですから、夜になると、どうしてもその先生と顔を合わせ、話し合うことになってしまいます。
この話し合いの中で、私は、アイヌ語とかアイヌ文化について、その意義や価値など、いろいろ教えられていきました。
私の今日の始まりが、ここにあったといってもまちがいありません。
私が二十七歳のとき、造材山で頭と呼ばれ多くの仙夫の采配をとっていたのですが、ある日、家へ帰ってきて、むかしから我が家にあった幅の広いトキパスイ(酒器)がないのに気がつきました。父が売ってしまったというのです。
私はこのとき、
”この調子だと、アイヌの村に民具がなくなってしまう。今までにことばを失いながら、その上に芸術的な尊い民具まで流出してしまっては‥‥”
という疑問が大きくわいてきました。
”よし、なんとかして自分の力で買い集めよう!”
と、このときから、ぽつぽつと民具を買うようになっていきました。
昭和二十九年(1958)の秋、私たちの先輩、T先生が文学博士になりました。これをきっかけに、私は”よし、自分もアイヌのことをやろう!”と、堅く決心をし、古い民具を本格的に買い始めました。
しかし、本格的といっても、お金があってのことではありません。造材山にいって働き、その賃金から食べるお米を引いた残りで買い集めるという状態です。”どこそこの家でいいものがある”と思ったり聞いたりすると、じいっとしていられず、あり金全部かき集めて買いに行きました。
私は、シントコ(漆容器)、着物、刀‥‥、どんな物でも、ただもらいはしませんでした。なぜなら、もらったその時は値うちがなくても、後々になって「あいつにくれてやった」といわれるのが嫌いだからです。高い安いは別として必ず代金を払いました。
将来、どうなるともあまり考えずに、アイヌの物をアイヌが保存することがいいのだ、と思う一心で、二十年も経てきました。
日雇人夫や仙夫をして得たお金も、そうした物を買うときは、まったく惜しいと思ったことは一度もありません。まるで、物につかれたようなものです。
買い集めたアイヌ民具は、二十年間で百十種類、点数は千以上にもなりました。
こうなっては、私個人の家で保管すべきでないと考え、地元の平取町役場や、ウタリ協会理事のKさんに相談し、民具保存の資料館建設へと広まっていきました。ウタリ協会が事業主体となり、各関係方面に働きかけ、やっとその夢も、この(1972)六月二十二日に実りました。
アイヌの生活用具は、漆器も入れると、約二百三十種類になりますが、現在、現物のない物は、若い仲間たちと復元へと励んでいる日日です。
ところで、民具についてはこれでよいとしても、ことばをなんとか生きながらえさせたいものです。これは、ウタリ同志が協力しあっていくより、ほかに方法がありません。
老人たちの口から、とうとうと語られるアイヌ民族の世界‥‥、このことばが、エカシやフチで終わってしまうのでは‥‥、だれが受け継いでいくのだろうと思うと、私一人の力のたりなさを痛感するのです。
ことばは民具とちがって、口から口へと受け継ぐものです。だからこそ、やる気さえあればできることなのです。
アイヌ民族の遺産は、ウタリ一人ひとりが自覚し、正しく保存しようとすればできるもの、と私は信じています。
最後に、アイヌ語のアイヌということばは、人間の意味です。
むかし、アイヌ社会では、行ないの悪いアイヌを、アイヌと呼ばず、エンペ(悪い奴)といいました。また、行ないのよい立派なアイヌを、アイヌ・ネノ・アン・アイヌ(人間らしくある人)と、アイヌを二つ重ねて呼びました。
アイヌウタリよ、
アイヌと呼ばれても怒るな、恥じるな、そして、アイヌを二つでなく、三つ四つと重ねて呼ばれるアイヌになろうではありませんか。
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