05. ただひたすらに人間を信じて    主婦 四十七歳

 わたしは、この四十七年の間、ほんとうに休みなしに、生きることだけを考えてきたってことだろうね‥‥。

 わたしはね、日高の中心からちょっと東の方によった浦河町の姉茶というところで生まれたの。今じゃ、この辺は、サラブレットやアラブという競走馬の生産地として有名だし、ずい分、広い牧草地もあるけど、わたしらの生まれたころは、あしやよもぎ、柳の木などが生い茂った川辺にコタン(部落)が点在し、シャモの農家がその間を、馬で畑を耕していたもんよ。

 生まれたときは貧乏が迎えてくれ、ものごころついたときはアイヌ差別が待っていた。まったくこんな時代に生まれたうえに、わたしはもう一つの差別を背負う宿命になっていたんだよ。

 それはね、わたしがあかちゃんのとき、顔の右半分に、大きなやけどをしてしまったということなの。

 わたしの生まれたころは、チセ(かやぶきの家)づくりでね、大きなイヌンペ(いろり)があって、たき火であったんだよね。

 わたしの母が、ちょっと仕事をしているすきに、わたしは、はいはいしてそのイヌンペのおきの中に顔をつっ込んだらしいの。

 この出来事は、母が死ぬまで責任を感じ、自分の不注意を悔やんで苦しんでいたんだけれど‥‥。だれも悪いわけじゃないしね‥‥。

 わたしのはいった小学校は、姉茶の土人学校なの。土人学校というのはね、旧土人保護法というアイヌを保護し、生活や文化の水準を高めるための法律によってつくられたんだって。

 でも、わたしには、土人学校という学校にはいったという記憶はないの。なしてかというと、姉茶尋常小学校となっていたんだから。

 ずっと後になって、
「あんたら、旧土人学校の最後の在校生なんだって。」
とたずねられて、へんだなと思い、調べてみてわかったんだからさ。

 土人学校というと、なにかおかしな気になるね、なんだか外国人の学校みたいでね。

 でも、わたしは、姉茶の学校はたのしかったのよ。

 みんな、わたしらと同じ人たちでしょう。だから、だれにも気がねもいらないし、服装だって、弁当だってみんなにたりよったりで‥‥。わたしはいっしょうけんめい勉強したね。おかげで、いつも先生にほめられる子どものひとりだったの。学校から帰ってきたらいつも母に、
「きょうは、こんなこと習ったんだよ」
「きょうはね、こんなことして遊んだんだよ。」
といって聞かせたら、うちの母親って、やっと自分の名まえを書けるだけの無学な者だったけど、
「うん、うん。」
「よかったな、うんとがんばれよ。」
って、どんなに忙しいときでも、にこにこして聞いてくれたもんだよ。

 わたしが五年生のときね、先生に、
「この学校なくなるから、野深の学校に行って勉強するんだぞ。」
といわれてね、そのとき、どういうわけなのかわからなかったけど、別な学校へ行くというのがたのしみみたいに思ってさ、椅子や机をしょったり、本や実験道具、ほうきやばけつなどをみんなで持ったりして、野深の学校に引越ししたもんなの。

 土人学校が廃校になって、わたしたちはこのときからシャモの学校で、シャモといっしょに勉強することになったんだよね。
ところが、野深の学校に行ってまいったのは、なんっていっていいか、徹底的な差別なんだわ。もう、お話にならないのね。

 どういうふうにって‥‥。ともかく笑うんだわ。アイヌの子がひとつなにかするたびに笑うの。

 はじめはね、なにかおかしなことをやったのかなって、その辺をみまわしたりしてさ。だって、なんで笑われているかわからんものね‥‥。勉強がわかって手をあげると、大笑い、学校にきて、「おはようございます」といえば、大笑い、弁当を食べれば、大笑い‥‥。

 わたしらを人間としてまったく無視しているのね。動物なんだよ。だから人間の行動をしているわたしらがおかしいんだわ。

 なにもかも、すべて笑ってかたづける、このことは、徹底的にわたしらをたたきのめす大きな差別と、侮辱なわけさ。
「笑われたぐらいで」って思う人もいるかも知らんけど、それはもう人間の無視ってことなの。ほら、動物園の猿にさ、なにかをやると、その一つ一つのかっこうがおかしいってみんな笑うでしょう。あれと同じね、いや、それ以下だったね、わたしたちは。だから、学校が楽しいという今までの気持ちが、いっぺんにふっとんで、もう、行くのがいやになってね、朝になると、
”きょうは、腹痛くなればいいな”
”きょうは、頭痛くなればいいな”
って、そんなことばかり考えるようになってしまったの。
 

 それでも、勉強している時間は、先生がいるから、少しはいいんだけど、遊び時間になると、もう、どうしようもないの。
「くさい」とか「アイヌ」とか、そんなことはしょっちゅうなんだけど、わたしの前にきては、舌を出し、
「アカンベー、アカンベー。」
をしてねえ‥‥。

 わたしは、遊び時間になると、いつも机にじいっとうつぶせになって、耳をきつくおさえて、涙をぐっとがまんしながら、
”早く鐘がなればいい、早く鐘よなってくれ”
と、それだけなの。

 そんなわけで、アイヌってばかにされた悲しさや苦しさ、そして、わたしがかたわであったということ、こたえたのね。

 ところで、野深の学校に行って驚いたのは、シャモの人たちさっぱり勉強できないの。姉茶の学校では、読み方(国語)の本なんか、絶対、漢字にかなふらなかったもの。
「かななんかふって読めたって、ほんとうに読めたことにならん。」
と、先生にきびしくいわれていたしね。

 ところが野深の人たち、みんなかなふってるのよ。ひどいのになったら、教科書がかなで真っ黒になっているんだからね。

 わたしは、いつも、
「ああ、この人たち、なんぼ人をばかにしても、自分で本も読めないんだ。本を読めないから、くやしがって、いじめるんだ!」
と、自分にいい聞かせていたんだけど。

 まあ、そんなことで六年生を終わってね。そのころ、六年生終わったら高等科っていうのがあったの。行きたくなけりゃ行かなくてもいいんだけどね。

 うちの親たちは、
「いいか、アイヌがバカにされたり、身体不自由な人がいじめられたりするのは、シャモに比べて文化が遅れているからなんだ。いっしょうけんめい勉強すれば、だれもバカになんかしないんだ。だから、高等科さ行け。」
と、さかんにいってくれたんだけれど。

 そのころ、わたしは足を痛めていたの。それで、ほんとうは、高等科へ行って勉強したい気持ちがすごくあるんだけれども”また、ちがう学校に行ったら、どれほどバカにされ、いじめられるか”と思ったら‥‥。

 だけど、親の気持ちを考えたら、こんなこと話せないから、
「足がとっても痛くて、学校に通えない。」
といって、とうとう高等科へは行かなかったの。

 わたしはね、外ではひと言もものいわぬ子どもになっていたんだけれども、家にいたら、とてもほがらかで明るかったの。だから、親はわたしがどんなに思いつめていたのか、わからなかったのね。でも、それがわたしのできるそのときのただ一つ親孝行だった‥‥。

 当時、青年学校というのがあってね、女ばっかり四十人ほどいたんだけど、そこへ行って裁縫を習ったのね。わたし手先が器用の方であったし、そんなのがすきなものだから、いっしょうけんめいやったわ。まあ、いろいろつらいことが、たくさんあったけど、ただ自分で、しっかりやればいいんだって思ってね。

 わたしね、学校のころの写真って一枚もないの。写真を撮る、と聞くと、逃げてばっかりいたのね。今、そのときのみんなの写真をみると、
”ああ、このときは便所にかくれていたんだなあ”
”このときは、裏から逃げて木のかげで、じいっと待っていたんだなあ”
”このときは‥‥”
と、思い出すんだけれど、わたしは、知らず知らずのうちに、
”世の中で一番みにくい人間はわたしなんだ。ほかの人にどんなことがあっても、同じだと認めてもらえることはないんだ”
と、心に決めてしまっていたわけなの。

 十七のときだったかな、わたしの姉二人が東栄の漁場に働きに行ってたの。それで、なにか用事があって、そこへい行ったのさ。

 そこには、はまのチンピラ風のあんちゃんたちが、ぐうたらぐうたらしながら、なにかしていたのね。

 わたしは「Sですけど姉いたら」ってはいって行ったら、いきなり「ワッハッハ、ワッハッハ‥‥」と笑うの。「腹痛くなった!」とか「おしっこでそうだ!」とかいって笑うったら笑うったら‥‥。

 わたしね、笑われるってぐらい、ひどい差別や侮辱はないっていうことを、小学校のときからいやというほど身にしみていたでしょう。

 もう、そこを出てから、泣けて泣けて‥‥、手とか足が不自由なら、なんとかかくせるときだってあるけど、顔でしょう。どにもならないのね。

 ”わたしは、なんのために生まれてきたんだろう。なんぼ自分でいっしょうけんめい生きたって、結局はだめなんだ。わたしはただいじめられ、バカにされるために生まれてきたんなら、生きていることなんかないんだ。それなら死んだほうが良い‥‥”

 十七ごろといえば、一番ものの感じやすい年ごろでしょう。

 それで、踏み切りのところで汽車にとび込んで死のうと考えたの。

 踏み切りのところに少し立っていたんだけど、人が通れば、へんに見られたり、思われたりするのがいやだと思って、線路わきの草の中にうずくまって、ブヨやアブなどをおいはらいながらじいっと汽車のくるのを待っていたの。あのころ、汽車が通るったって、三時間か四時間に一本でしょう。そのうちに、
”わたしが死んだら、かあちゃん、どう思うべな‥‥”
と、考え始めたのね。
”かあちゃんは、こんな顔になったわたしを育てるために、三年余り、ご飯も食べないで心配してくれたっていうし、アイヌだってバカにされたのも、わたしよりもずっとずっと何倍もひどく、苦しみ悲しんだって‥‥。それでもこうやってわたしを育ててくれた。自分が今、ここで死んだら、親にどんなみじめな思いをさせるだろう‥‥。どんなに親不孝なことか‥‥。そうだ、やっぱり、わたしは親のためにも、ここで死んではいけないのだ。かあちゃんたちが生きてきた苦労を踏みつけてはならないのだ。かあちゃんが死んだら、わたしはすぐ死のう。それまで、もう一度生きていこう”
ってね。

 わたしの母親というのは、わたし今、どんなに逆立ちしても、足もとにも及ばないりっぱな人間だったと思うの。わたしが一生かかっても、とても、おいつけないわ。

 わたしら四人の子どもを連れて再婚して、その人との間に五人の子どもが生まれたのね。そのうち二人は死んでしまったけれど、そのほか、貧乏で食えない人の子どもとか、シャモが捨てて行った子どもとかを連れてきて、養ったんだからね。だから家の中は、いつも十五、六人の家族よ。再婚した父というのは、酒は、まあ少しのむけど働き者でね、かせぎもあったので、なに一つぐちもこぼさず、みんなりっぱに育てたんだからねえ‥‥。

 わたしが二十三か四の冬のとき、飯場(寮)のご飯たきに行ったの。穂別の山にはいった炭鉱の飯場でね。四十人のご飯たきを一人でやるのよ。

 このころは戦争が終わって、なにもかもない時代だったでしょう。

 食糧にしたって、玄米に大根を入れたり、いもを入れたりさ‥‥。朝は夜中の一時に起きて、何回もご飯をたきなおして、それを一人分ずつ分けて‥‥、なんたって四十人分だからねえ。

 朝の一時から夜の八時ごろまで、まったくすわるひまなしさ。自分のご飯を食べるんだって台所に立ったままなんだからね。

 その間に「これ、おねえちゃん、洗たくしてくれよ。」といわれれば、いやだといえないしね。

 石けんがないもんだから、木を燃やしたその灰をとって水にとかし、あく汁をつくってするのよ。ところがこのあく汁って、すごく手が荒れるのね。すぐはだが、がさがさになって、あか切れになってしまって‥‥。わたしにはとても辛いことなんだけれど、洗たくしてやることによって飯場の人たちが安心して働けるんだ、と考えれば、やってやりたくなるでしょう。

 ところで、そのころのわたしはね、自分が身体不自由だってことを、すごく気にしていたの、娘っ子だものね。だけど、アイヌであることには、そうでもなかったの。ほんとうよ。なぜなら、当時、アイヌ協会があって、いろんな人たちがわたしの家に出入りし、知り合っていたから”アイヌだからってなにが悪いんだ”と考えられるようになっていたのよ。

 ある朝、飯場の帳場さんがね、
「あした、三人、苫小牧に行くから弁当つくってやってくれ。」
というのね。

 白米のないときだったけれど、こんなときのように町へさがる用事のある人のために、白米が用意されているの。

 その白米でご飯をたいて、大きなおにぎりを六つつくり、なべのふたの上にならべて持っていったの。わたし、そのときのことを思い出すと、二十四年経った今でも、涙がでるんだけど‥‥。
「お弁当できたよ。」
っていったら、二十五、六の、今でも忘れられないMという男が、
「なんぼもってきた。」
というの。
「三人さがるっていうから、一人二つずつ食べるようにと、六つおにぎりもってきたよ。」
と、なべのふたにのせたまま、その男にさし出したらね、
「なんだ、四つしかないんでないか!」
というのね。わたしなんの気なしに、
「六つ、あるや。」
といったら、Mはこういうのよ。
「いいか、おれ、いま数えるからな、よくきいていれよ。はじまり、一つ、二つ、三つ、四つ、おわり。四つしかないんでないか!このアイヌ、かんじょうの仕方もわからんのか。」
わたしは、あまりにもとっさのことで、腹たつもなにもないの。頭の中がボワーンとしてしまって‥‥。そのなべのふたのおにぎりを、その男におしつけて、炊事場までとんでもどってきたの。ほんとうに、頭に血がカーッとあがって、なにがなんだかわからないのね。この日は、すごく寒い朝で、飯場の裏の川面に厚い氷がはってね、そこに行ってたたずんだの‥‥。足もとのところは、いつも朝起きたとき、氷をわって水をくんだりするもんだから、水の流れがわった氷に当たりながら''カチャ、カチャ‥‥''小さな音をたてているのね。そして、その音だけが、わたしをつつんでくれるの。わたしは、ただ涙が出てきて出てきて‥‥。
''わたしは、なぜ、この人たちに、こんなことをいわれなければならないのだろう。わたしだって、人間として正しく生きよう、だれにも笑われないようにと、いっしょうけんめい生きているのに‥‥。あの人たちが、ほんとうに安心して働けるようにと、こんなに手から血を出してまでも、この冷たい水でつらい洗たくもやっているのに‥‥。それなのに、どうしてこうまでも‥‥''
と、思ったら、悲しくて悲しくて涙がとまらないの。

 泣いて泣いて‥‥、泣きながら考えてみたの。
”どうして、わたしたちはこんなことに耐えていかねばならないんだろう。そういうことをいわれなければならない、なにか理由があったなら教えてほしい”
ってね。

 そんなこといっしょうけんめい考えたけれど、考えたってなにもでてこないわけね。泣くだけ泣いて、涙も、もうなくなってしまったんではないか、と思うぐらい泣いて、飯場にもどったの。

 わたしは、そのときから、もうMの顔を見ても、ぜったい口なんかきかないぞ、って決めたのさ。

 それから三日ほどたったときに、そのMが、大きなふろしきにいっぱい洗たくものをつつんで、
「おい、ねえちゃん、これ頼むな。」
といって、わたしの前に置いたの。

 そのとき、たたき返してやるって気持ちはあるんだけど、そのことばが出てこないの。ただ、だまってにらんでいるだけ。Mが去った後、考えたわ、つっ返してやろうか、どうかと。

 半日ぐらい考えたわ。
”もし、わたしがこれをつっ返したら、あの男は、なんで返されたかわからないだろう。わかるほど人の気持ちを考えられる人間なら、なんの罪もないわたしを、大勢の人の前で、なぶったりバカにしたりはしなかっただろう。だから、洗たくをしてやろう。洗たくをしないということは、わたしはあの男に負けたことになるんだ!”
とね。

 ほんとういって、バカくさいって気持ちをもちながら、昼から洗たくして、一日かかってほして、たたんでふろしきにつつんで、それから、便箋に六枚ぐらい手紙を書いて、つけてやったの。

 なぜ、わたしたちはアイヌだからって、あんたたちにバカにされなければいけないの。同じ人間ではないの。わたしは不幸にして、顔にやけどをしてかたわ者だけれど、あとはどこが変わっているというの。今から七、八十年前、アイヌが教育をうけさせられなかった時代なら、はじめ、一つ、二つ、三つ、四つ、おしまいという教え方もあったのでしょう。シャモにだまされてもわからなかったりもしたでしょう。しかし今はみんな、あんたたちと同じ教育をうけているのよ。アイヌにだって、大学の教授や医者、牧師、町会議員や村会議員だってたくさんいるのよ。みんな常識をもった人間として、りっぱにやっていってるのよ。ただ、アイヌだからって人をバカにするあんたたちの方こそ、よほどはずかしめられなければならい常識のない人間ではないの。

 わたしは、あんたの洗たくものをつっ返そうと思ったの。だけど、わたしが正しいのかあなたが正しいのか、それを考えてほしいから洗たくしたの。

 それでも、わたしのいっていることに、もんくがあるのなら、とことんまで話し合いましょう。
と、いうように。

 ちょうどそのとき、飯場に大学を出たというおじさん夫婦がいたの。そのおばさんはアイヌなんだけれど、わたしに、
「ねえちゃん、バカでないか、そったら奴の洗たく物なんか、ぶっとばしてしまえ。」
と、おこるのね。だけど、
「いいえ、わたしには今、こうすることが一番いいと思うからやるんだ。」
といいながら、その手紙を見せたの。するとおじさんが読んでくれてね、
「ねえちゃん、あんたは偉いなあ、ふつうの人間なら、とてもそんなことを考えないよ。りっぱだなあ。」
と、いってくれたけれど‥‥。

 あのMが、その手紙をおしまいまで読んだかどうかわからないけれども、それからというものは、洗たく物一つ頼まなくなったし、わたしに会うと顔をそらしてしまうようになったの。
”ああ、やっぱりわたしは正しかった。わたしはMに勝ったんだ”
と思ってね、気持ちの整理ができたんだけれどね。

 でも、二十四年経った今でも、このことを思い出すと涙が出るということは、あのときMに勝った、と思っていたけど、ほんとうは勝っていなかったんだって‥‥。

 それは、今なお、差別がわたしたちにおおいかぶさっているということさ。わたしがほんとうに勝っていたのなら、今は、Mという男をなつかしく思い出すはずだ、ってね。

 それに、わたしね、たとえどんなことをいわれても、自分が正しく、曲がったことをしないで、そして人の気持ちをたいせつに考えていけば、相手にもわかってもらえる、相手の心を変えていける、って思っていたの。でも、自分がどんなに正しく生きていっても、決して浮かばれない現実があるんだ、ということがわかったの。
”まごころは、必ず相手のまごころに通じる”という言葉があるけれど、アイヌであるがゆえに、ひとつもむくいられなかった、ということかな‥‥。悲しいことだね、ほんとうに。

 わたし、顔の手術をしたのは最近なの。それはね、子どもたちが結婚して孫ができたとき、
「おまえのばあちゃん、かたわだべ!」
といわれたときの、苦しみや悲しみを考えたからさ。

 わたしは幸いにして、その苦しみや悲しみに耐えてきたけど、これからの小さな子どもに、いわれなき差別や苦しみを受けさせてはならない。その原因は、自分の力で取り除いてやらなければ、と、思ったからなのさ。もう一回手術すると、きれいになおるっていうけど、もう必要ないやね。

 でも、わたし思うの。わたしが、いろいろな苦しみや悲しみをのり越えることができたのは”アイヌであり、かたわであったからではないか”ってね。アイヌであるという消すことのできない事実と、人よりみにくいというかたわの顔、この二重の苦しみが、わたしをこなごなに打ちのめし、そしてその中から人間とは、を考え、自分が人間として自信をもって生きなければ、と強くさせてくれたのね。また、自信をもつということは、だれがやってくれるものでもなく、自分自身にあるんだ、ということも知ったわ。

 わたし今、アイヌ民芸品をつくる仕事をしているの。わたしらの祖先から伝えられてきた文化を、自分たちの手でやらなくては、ってね。そりゃ、それがいくらかの金になるのもあるけど、まずはじめは勉強してみたい、と思ったの。まだ、始めて八年ぐらいだけど‥‥。

 実は、わたし結婚して開拓地にはいったんだけど、失敗してね、この土地にもどってきたときには、からだがガタガタであったの。わたしのだんなは、もう別れてしまったんだけれど、大酒のみで、なにせ働くことの嫌いな人でね‥‥。貧乏はしようのないことだけれども、からだが弱いということは苦しいことよね。それで、なんとか弱いわたしにも生きていく方法はないか、と考えたのが、この民芸品づくりであったということなのさ。
いろいろ教えてもらいながら、つくっているうちに、ほんとうのアイヌ文化、アイヌ民芸をつくらなければと思うようになっていったの。
今、わたし「鹿笛」つくっているの。これこそ、アイヌの生活から生まれてきたほんとうの民芸品というか、実用品なのね。わたしの父親はこれをつくって大事にし、鹿とりに行ったものなの。
大自然と戦ったわたしたちアイヌの祖先がいっしょうけんめい工夫し、努力してつくった鹿笛やサラニップ(編袋)、コンダシ(手さげ袋)、神を信じ、自然に感謝する心からつくられたパスイ(神箸)、こんなのがほんとうのアイヌ民芸品さね。
わたしたち会をつくってね、民芸品の研究をしているのよ。金だけのためでない、ほんとうのものをつくっていこう、ってね。

 しかし、振り返ってみると、世の中もずい分と変わったもんだねぇ。
でも、これからの若い人たちだって、アイヌであるがゆえに苦しみや悲しみを味わうだろうね。そりゃあ、わたしらのときのような表面だったことは少ないだろうけれど‥‥。だからわたしはね、これからの自分を、人の心に自信をつけさせるなにかになれば、と思っているの。それで考えたことは、アイヌってどんな歴史をたどり、どんなすぐれた文化をもっていたのか。人間として、ほんとうにりっぱに生きていたんだ、ということを形に残し、記録に残す、ということなの。それに、わたしたちの年代こそ、正しいアイヌの足跡を残すという努力をしていかなかればならないし、その責任があるのではないか、それこそ大事な仕事なんだ、ってね。
でなければ、アイヌは、ただ無力なものとしてしか記されていかないし、それでは、アイヌの心をけがすことになり、また人間を否定することにもなるのではないか、と考えてさ。
今になって自分を見つめるとき、わたしって、ただひたすらに自分を信じてきたっていうことね。ということは、人間を信じてきたということだと思うの。そしてそれは、わたしたちアイヌがこの世に存在し始めたときから、ずーっと伝え育まれてきたアイヌの心なの。アイヌって人間という意味でしょう。人間は心なのよね。形でなくて心ね。四十七年たって、やっとそれだけがわかったの。(聞きとり 郷内)


*** 1 今日まで生きてきて

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