15. 毛 女性 二十二歳
いきなり、わたしがこんなことを書いたりしたら、きっと、いやがる人もいるかもしれない。でもこの悩みは、アイヌであるわたしたちの大半の悩みであるはずだから、あえてわたしは書いてみようと思う。自分のためにも。
子どものころ、わたしが和人たちから「アイヌ」と呼ばれるようになって、ばく然と自分なりに''アイヌと呼ばれても仕方がないんだ‥‥''と思うようになったのは、自分の目元が和人と比べてくぼんでいることと、毛深い、ということであった。小さいわたしよりも、先生の方が毛も少なく、肌まで白いのだから。
小学校の三、四年までは、まださほどの抵抗もなく、身体検査を受けられたが、五、六年になるにしたがって、だんだんと抵抗を感じてくるようになる。それにつれて、まわりの目も気になりだす。ヒソヒソ話もじかに伝わってくる。
これが中学生になると、いよいよたいへん。身体検査の日になったりすると、休む人も出てくるのだから‥‥。
これは、ウタリであれば、だれもが味わった、いなや思い出であると思う。
先生にまで、
「あんたって、ほんとうに毛深いネェ。」
なんて、しみじみといわれたりすると、その場から逃げ出したい気持ちにかられてしまう。
いつも考えることだが、もし、アイヌの人全部が、和人と同じようであり、目もとのくぼみだけが深いというのであったら、果たしてこのような(いろんな意味を含む)差別があっただろうか‥‥。きっと、今よりは少ないと思う。
わたしは、半袖のものを着るのを嫌った時期があった。何の抵抗もなく半袖を着て、スカートをはいて歩ける人が、どれほどうらやましく思ったことか‥‥。今でも、その気持ちはある。
集団就職で地方へ行っても、必ず「アイヌは‥‥だ」ということばを聞く。どこにいても目立ってしまう。小さな動きにしても。
何か月もふろにはいらず、クビ?いづらくなって、勤めをやめた人もいる。
アイヌであるがゆえに、毛深いことがそうさせるのだ。だからといって責めることもできないし、そうであってもいけないと思う。
本州の銭湯より、北海道の銭湯の方が、まわりの目が、ことばが、とっても冷たく肌にささってくる。頭から足もとまで眺め、笑っている人もいる。
近所の人たちといっしょにおふろへ行っても、いったんふろ屋ののれんをくぐると、まったく他人に変わる。話しかけても相手は知らん顔。だから、しぜんと自分から離れて口をきかなくなる。それが、今でも悲しい習慣になってしまった。
アイヌであることを無視して、わたしの背を流してくれた人がいた。わたしは涙がでるほどにうれしかった。
ただそんなことで、というかもしれないがわたしたちには、毛は重い荷物になっている。傷になっている。
はじめての銭湯へ行くと、そこに居合わせた人の目が、すべてわたしに注がれてくるのだから‥‥。こんなとき、どうするとよいのか、そのすべを知らない。わたしが見返すとあわてて目をそらす人、うつむく人‥‥。しかし、そのときのわたしの目は、決して素直な目でその人たちを見ていないはず。きっと、挑戦的なまなざしで、にらんでいると思う。そんな自分に気づくときの悲しさ、わびしさ、実に嫌いだ。
よく、人間は慣れると何も感じなくなる、という。だからわたしは、一日でも早く慣れてもらいたい、と思いながら、いっしょうけんめい銭湯に足を運ぶ。
毛深い自分を見るのは、体重が増えることよりもつらく、いやなことなのだ。
アイヌのだれもが?和人になりたがる。
こう書いているわたしだって、和人のようになりたい、という願いは今でもある。アイヌはアイヌでしかないことを知っているはずなのに。
しかし、これも、ただ差別されたくないのひと言につきるだろう。
だから''アイヌでいたくない''って、ことになるのだ。自分自身がアイヌであることをのり越えることもできず、ただ、アイヌであることを卑下している。悲しいことだ、アイヌから逃げようとしか考えられないなんて‥‥。
和人になりたいと考える前に、アイヌである自分をのり越えて、ほんとうの日本人になるべきだと思う。
アイヌであることをのり越えて自分を変えるより、他になにもないのだから。
すきな人がいても、自分からすきといえない‥‥。アイヌである自分を考えると、とても勇気がでない‥‥。いってしまえば「サヨウナラ」をいわなければいけなくなるように感じて、とても恐ろしい。結婚となると、もっともっと深刻。たがいにアイヌであることをのり越えられずに別れてしまった悲しい例が、あまりにも多すぎる。こんなことを書いているわたしも、やがてこの人たちと同じように悩み苦しむのでは‥‥。
いくら和人のようになりたい、と思っても、しょせん、アイヌでしかないわたしたち。
アイヌを忘れたいための同化(和人と結婚)なんて、決してあってはいけないことなんだ!
こんなわたしも、やっとこのごろ、
「あんたって、ほんとうに毛深いわねェ。」
といわれても、素直に、
「ええ、毛深いです。」
と答えられるようになった。
そのとき、自分の心の底では、
''アイヌなんだ、わたしは。だれにも恥じることのない人間なんだ''
と、くり返しているのに気づいたりする。
これでよいのだ、と思う。
今の小さい子どもらも、いつの日か、わたしたちと同じ悩みや苦しみにつき当たる日がくるにちがいない。
でも、アイヌである自分に、誇りをもつ日も、必ずくるようになると思う。
なんでも、
「アイヌは、ダメなんだ!」
「アイヌは、ワルいんだ!」
という時代は、もう過ぎてよいはずである。
これからは、胸を張って生きられるような世の中であってよいはずなのである。だからこそ、アイヌであるわたしたちが、もっともっと強くなっていかなければならない。
心で耐えること‥‥忍ぶことで。
***2 若者たちの苦悩
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