39. Ⅴ 座談会・現代の問題点 -歩みを振り返って-
今日までのあゆみを振り返りながら、「アイヌ問題」話し合いました。
参加された方は、十代の若者から六十代のお年寄りまでで、また住んでいるところも、それぞれ異なっています。
それぞれの立場で、活発に話し合いがすすみました。
アイヌ問題とは‥‥、その根の深さが、よくわかると思います。
※この座談会は、昭和四十七年四月一日、札幌・ホテルアカシヤで開かれたものです。
出席者(発言者)
平取町 農業 六十歳 K
札幌市 木彫師 二十八歳 N
静内町 会社員 四十四歳 M
札幌市 建築技師 三十七歳 O
仙台市 学生 十九歳 H
釧路コタン長老 六十八歳 Y
浦河町 主婦 三十五歳 I
司会 郷内満
若林勝
郷内 遠いところ、ご苦労さまでした。
よくアイヌ問題というと、和人の評論家や学者といわれる人たちが、外部から見つめていろいろ発言していますが、きょうは、ウタリ系の人たちを中心にして、今日の問題を話し合ってみたいと思います。よろしくお願いいたします。
まずはじめに、最も足もとの問題として、「アイヌ」ということばが、タブー(使ってはいけない)といわれてきました。それはなぜなのか、ということから話をすすめてみたいと思います。
「アイヌ」を口にするな!
K 現在のウタリ協会前身は、昭和六年(1931)に、アイヌ協会として発足しました。それが十五年ほど前の総会のときに、若い人から「アイヌということばに抵抗があるから、ウタリ(なかま)協会に名称を変えよう」と提案され、そこで決議されたのです。ところが、四年ほど前から「ウタリ協会をもとのアイヌ協会に改めよう」という声が出てきているのです。たとえば、陳情などに行って、ウタリ協会といっても、相手側のシャモ(和人)は、なんのことかわからない。中には、趣味の会なのか、それとも外国の団体なのか、と思ったり‥‥。
そこで、なぜ、アイヌをウタリと変えたかということなのですが、その原因は、なんといっても、アイヌが、シャモに「アイヌ」といわれたり、指さされることが差別につながっていたからです。長い歴史の中で、いわゆるシャモの陰謀と、アイヌの無知とがごっちゃになってしまい、アイヌ自身がアイヌをいやがっていた、といえるでしょうね。
最近になってですね、「アイヌ」といわれても、だれもおこらなくなったのは‥‥。でも、まだいるかな‥‥。
N 少なくなったけれども、まだいるね。
M 地方によって変わりますけどね。
若林 昨年のことですが、わたくしの友だちが上川郡標茶の学校に転任して行ったんですよ。そのとき、一番はじめに教えられたことは、この町には、アイヌがいるから「アイヌ」ということばを絶対に使わないように、であったというんですね。
N そこは、古いコタンなんですよ。そういうところも、まだ残っていますね。たしかに。
若林 この友だちは、かなりしっかりした考えをもっているんですが、転任早々のことだったので面くらってしまった、というんですね。どの先生に聞いても決まって「アイヌということばだけは使わないように」とね。
K わたしの住んでいる平取で、こんなことがあったのですよ。教育委員会で小学校三年生が使う社会科の副読本を作ることになったのです。そこで問題になったのは、地名の由来の説明なのですね。北海道の地名は、ほとんどアイヌ語が源になってつくられているから、その説明に当然”アイヌ語によると”と書かなければいけない。そこで、そのアイヌということばを使っていいかどうか、ということなのです。平取ではアイヌの町会議員が三人いるものですから、教育委員会では、この三人に相談したわけです。その一人はわたしなんですが、わたしはそのとき、”アイヌ”と使うべきだと主張しましたが、後の二人は、三年生の子どもに対して、アイヌと教えていいか、どうかとなり、最後に先住民と決まったわけです。ところが、どうしたことか、印刷のときに、アイヌとなってしまったのですね。そこで、文字の上に墨をぬったのか紙を貼ったのか、そのようなことをして訂正したのですね。そのために、先生方は困ってしまってねえ。たとえば、なぜ、アイヌと印刷してあるものを消したのか、という疑問が子どもたちにかえって大きく出てくるのではないか、とね。いまも、先住民として使っているのですよ。もうアイヌでいい、とわたしはいっているのですがね。
N 実は、これ、たいへんな問題なんですよ。だいたい、学校の先生からして、アイヌと使うことを、タブーだなんて、とんでもないはなしなんですよ。なぜかというと、先生の頭の中に、アイヌは未開な、いわゆる劣等な人種だという観念があるからですよ。だから、子どもたちも無意識のうちに、そうなってしまう‥‥。以前に、旧土人保護法の土人がいけないという問題が出たんですよ。ぼくは、なぜ、土人がいけないかわからんですね。土着している人間だから土人というのであって、それがいけないのであれば、人間を否定してしまうことになる。なにか、アフリカの土人とか、東南アジアの土人とか、土人というとすぐに遅れた劣等人種といった差別意識ができあがっているんですね。このような意識を変えていかないと、アイヌ問題は、いくらたっても進歩しませんよ。
M アイヌというのは、和語になおすと、人間、人という意味ですよ。それが、長い生活の苦しみの中で、貧困と無知を意味することばに、ねじまげられていった‥‥。
O それもシャモによってね。
郷内 そこで、この問題をどう正しく多くの人たちにわかってもらうか、ということで、現代の生活はどうなのか、を知ってもらうことがたいせつだと思うのですよ。
アイヌを知らない和人たちー
若林 本州の人たちの中で、現代のアイヌの生活を正しく知っている人がどれほどいるか、といったらごくわずかでしょうね。東京のわたしの住んでるところで、たずねてみたんですが、小学校の高学年ではぜんぜん知りませんね。中にはアイヌということばも知らなくて「どんな果物?」とたずねる者さえいる始末ですから。今でも、原始的な生活を行っていると思っているのがほとんどですね。中学になると、一クラスのうち、二、三人が自分たちと同じ生活をしていると思う、という想像であって、後はみな、原始的な生活を営んでいる、という答えですね。高校生、おとなにしても、たいした変わりもなく、また、知識人といわれる人たちにしても、差別と貧困に苦しむ今日の姿など、知らない人が多すぎるという状態ですよ。
N ぼくは民芸品関係の仕事で、日本中のデパートをめぐり回るんですよ。よくデパートで北海道物産展をやるんでね。山陽地方のデパートへ行ってたときに、年よりの人が、ぼくの前にきましてね「いやあ、北海道からきなすったんか」といって、あなたがアイヌですか、という顔をして見るんですね。そして「あなたは、ずいぶん日本語がじょうずですね」からはじまって、しまいには「きょうは、どこにお泊まりになるんですか」とか「なにをお召しあがりになるんですか」という具合なんですよ。こうなると腹立つよりもおかしくなってしまって「ぼくはアイヌ語のつぎに日本語がじょうずなんだ」とか「きょうはここにむしろを敷いて寝るんだ」とか「北海道から熊の肉のくんせいを持ってきているからそれを食うんだ」とか、そうやってからかったことがあるんです。まあ、これくらい本州の人たちは認識不足ですね。若林さんのお話のとおりですね。しかし、これは地元北海道においてさえも、知らない人が多いのではではないんですか。
O わたしたち、一番びっくりしたのはね、三年ほど前のことなんですけれども、登別の熊牧場ができて、そこへ東京大学の法学部を卒業した人が二人きたんですね。そのときの実態をありありと見ていた人がわたしのところへきて話してくれたんですが、二人がロープウェーからおりて、そこにある家へはいって行った。まず開口一番なんていったかというと「なあんだ」であった。そのつぎに出たことばは、なんと「アイヌ人て、二本足で歩いているんじゃないか」なんですね。二人にはアイヌは、日本人どころか人間ではなかったわけですよ。
N ぼくは、今はちがいますが、以前はそういったことをいわれると、すぐに頭へきましてね「おれんちじゃ、テレビもあるし、自動車もあるし、おまえんちよりよっぽどましな生活しているんだぞ!」などと、いいたくなったんです。しかし、よくよく考えてみると、そういうことはまちがいなんだな、と気がついたんです。というのは、テレビがあることや自動車があること、現代のシャモと同じ生活をしているということが、ちっともよいことにはならないわけですよね。しかし、そういいたい気持ちがあるというのは、自分自らアイヌを差別しているんですね。ぼくは今、どっちかというと、むかしのアイヌの生活でちっともおかしくないと思うし、それでいいとも思っているくらいなんです。
大部分が貧困な生活
それはなぜにー
K そこで現在の生活なんだけれども‥‥。
明治になって旧土人保護法により、わずかな土地を与えられ、狩猟生活から農耕生活に変えられてしまった。しかし、まだ当時は、海には魚もいたし、山には鹿も熊もいたから、一反(やく十アール)か二反畑をつくっておれば、どうにか自給自足ができた。それに土地に対する私有観念がないから(狩猟時代は、土地はアイヌまたはコタン全体のものであった)後になって気がついたときには、もう、すっぱだかになっておい出されてしまったという具合でしょう‥‥。いきつくところは食うもできない日雇労務者なんですよ、大半のアイヌというのは。そして、その中から一歩も出れないんですよ。財産など、あるはずもないし‥‥。いくら働いても自分の家を建てるくらいで精いっぱい。だから、現在の生活というのは、お涙ちょうだい的に「哀れだ、哀れだ」というけれども、事実そうなんです。戦後、はだかからたちあがって一代をなしたという人もおりますけれど、全体的に見ると、基礎になる教育や、商業感覚に乏しいアイヌですから、シャモと同じに投げ出されたとしても、やっぱり負けてしまうんですね。
アイヌは酒がすき
といわれるがー
郷内 北海道内において、シャモがアイヌを見る目の中で、アイヌは酒にもろく、酒に振りまわされている、実際は、生活は貧困ではなく、酒のために自らをほろぼしている、というんだけれども、若い世代から見ると、どうでしょう。
H 寒いところに住む民族は酒がすきだといわれていますが‥‥。ぼくの父などは、よく酒を好んだし、また、酒で身をほろぼすといったこともよく耳にしました。しかし、それは、自分でなにをしようとしても、父親の時代ではなにもできなかった、と思うんです。なにをするのにも力がなかったし、また、あったとしてもさせてくれなかっただろうし、それをうったえる場も、なにもなかった。そうなると、結局は自分自身のアイヌの血をのろって、それを慰めるのは酒しかなかったんじゃないか。そんなように考えます。ぼくは、別に父を責めるつもりもないし、かといって、現代においてもそうかというと、かなり変わってもきています。ぼくは、酒で身をほろぼす、ということは、すごく少なくなってきているのではないか、と思います。
Y 若いH君がそのように考えているのに感心したよ。まったくそうであったんだから。以前は、警察であっても裁判官であっても、アイヌに対しては、なに一つ味方してくれなかったんだ。どんなによいことや正しいことをしても‥‥。こんなところに、やむにやまれぬ酒があったんだな。
K それに、狩猟生活から農耕生活へと移行していく中で、やっぱり、ついていけない大きな問題もあったと思います。これは、ほとんどの部落にいえることですね。だから、アイヌ自身が意思が弱いから酒に負ける、とは一概にいえないでしょう。
O そうだと思います。苦しいどん底の生活の中で、苦しみや悩みが、酒によってうさをはらしてくれるなら、アイヌでなくたってだれでもがびんの底をたたいてのむでしょう。当時の状態ではやむをえなかったと思いますね。ですから、シャモが口にする「アイヌと酒」は誤りですよ。
Y 現在のアイヌの生活はどうか、というと、もうどこへ行ってもシャモと変わりないでしょう。大正から昭和のはじめにかけて、アイヌの血を捨て、かけ足で日本文化に追いつこうとしたのだから。今は、社長さんになっている人もいれば、馬の二十頭も飼っている人もいる。町会議員になったり、学者になっている者もいる。一面、役所のお世話(生活保護者)になっている人たちもいる。しかし、全般的にいうならば、和人の一般大衆の生活のまっ端にたどりついた、どうやら日本の文化生活にたどりついたといえるでしょう。
わたしは
アイヌです
郷内 それでは、最もたん的な問題にはいっていきたいと思います。それは、自分がアイヌ系だと知ったときの気持ちと、同時に、自分がアイヌ系であることをどう思っているのか、ということなのです。
M わたくし、現在、中学二年と、小学六年、四年、二年と四人の子どもがいます。中学の子は、わたくしは一言も教えなかったのですが、小学校のときに「自分はアイヌだ!」と感じていましたね。二番目の子が三年生のときだけれども、こんなことがありました。「父さん、わたしらのクラスに、アイヌいるんだよ。」というんですね。「だれがそんなこといった?」と聞くと「友だちみんないっているよ」。「なして、その人をアイヌっていうんだ」とまた聞くと「だって、くさいんだもの」というんです。アイヌ系の人には、ワキガの人が多いんですね。その臭いで、なお「アイヌ、アイヌ」といわれるんですね。わたくしが、その子のところへ行ってみると、暮らしも貧しく衣服もりっぱじゃない。そんなことからもアイヌといわれ、わたしたち少年時代と同じくバカにされ、いじめられているんですね。そのために、朝、学校へと家を出ても、途中でどこかへ行ってしまう‥‥。わたくし今、町の補導委員をしていますが、非行少年と指さされる子に、アイヌの子が多いんです。残念だけれども。学校でも、努力はしてくれているんですが‥‥。
若林 これは、学校だけの問題でなくて、社会の問題も大きいですね。子どもを取りまく環境は子どもというよりおとなによってつくられているんですから。
M わたくしが、シャクシャインの運動に歩き回っていたときのことですがね。上の子が「父さん、シャクシャインてなんだ」と聞くもんだから「シャクシャインて、北海道を築いたりっぱな先祖だったんだよ」と教え、そして「シャクシャインは、北海道の先住民族で、いわゆるアイヌなんだよ。父さんたちも、子孫なんだからね」と、このときはじめて、アイヌであることを話してやったんですよ。長男にだけ‥‥。ところが、たまたま、わたくしがシャクシャインのことでテレビに出されましてねえ‥‥。そしたら、下の子どもが学校から帰ってくるなり「おまえの父さん、アイヌだべっていわれた」というんですね。わたしはそのとき、子どもが友だちにバカにされた、と思いましてね。ところが、うちの子は「うん、アイヌだよ」とはっきり答え、「そしたら、お前もアイヌだべ」と聞かれて「そうだよ」と返事し、ゆうゆうと帰ってきたというんです。この話を聞いて、ほんとうに胸をなでおろしましたよ。わたしは、下の子たちにアイヌであることを、いついおうかと迷っていたのですから‥‥。
I わたしも、自分の子どもに、小さいとき「アイヌだよ」と教えることはなかったんですけど、小学一年のときでしたか、子どもが学校から帰ってきて「おかあさん、浦小(浦川小学校)はね、もと、アイヌの骨が出たんだって」というので、「ああそう、だれがいったの?」と聞くと「友だちがみんないっているよ」というんですね。そして「骨が出たんだから、あそこにアイヌ住んでいたんだよ」と話すんです。だから「そうよ、それで、ぼくはアイヌってどう思うの」と聞いてみると「わからない」というだけ。わたしはそのとき「むかしは北海道にアイヌが住んでいたんだよ」と教えましたが、あんたがアイヌだよ、とはいえませんでした。テレビなどでアイヌのことが放映されると、主人もわたしも子どももいっしょに見ているので、子どもがなにか疑問をもったときは、わたしの知っている限りで答えてやっていました。
あるとき、わたしの祖母のことで「メムのばあちゃん、口を染め(入れ墨)てるからアイヌだね」と聞くもんですから「そうよ」と答えてから「メムのおばあちゃんの子どもはおばあちゃんだよ。そして、その子どもがおかあさんだよ」と話してやったんです。でも「うーん」というだけで、自分がアイヌだとは気がつかないでいるんですね。昨年、子どもも四年生になって、「おかあさん、アイヌだね」と聞いてきたんです。「そうだよ」と答えたら「したら、ぼくもアイヌだね」というから、「そうよ、おかあさんの子どもだもの」といったのですが、子どもには、たいした抵抗がなかったようでした。わたしは、子どもを連れて、それまでにシャクシャインの祭りや、いろいろな催しものに行き、特別な説明はしませんが、歴史的なことぐらいは話してやっていました。そんなこともあったのか、自分の方からアイヌを自覚していったようです。それになお、アイヌの本がたくさんあったので、ときどき、アイヌ童話などの本を読んでやったり、自分で読んだりもしていましたから‥‥。
でも、わたしは、子どもがはじめて「浦小のところにアイヌが」といってきたとき、なんとなく、アイヌを軽蔑するように感じられ、‥‥。わたし、自分がアイヌだから、いままで、そのようにされてきたから、そう感じとったのかも知れませんね。ですからわたしは、いつも子どもに対しては、人を軽蔑したり、自分より劣る子をバカにしたり、というような子になってほしくないと思ってやってきました。わたしは、アイヌだアイヌだと育てなくても、アイヌでもシャモでも、アメリカの黒人でもみんな人類は同じだという、そんなふうに育ってくれれば、と思っています。
N ぼくの家には、四歳と二歳の子どもがいるんですよ。このごろ四歳の子がよくいろんなことをしゃべるんですがね。この前、アランコロンのテレビをぼくといっしょに見ていましたら、ぼくと似たアイヌ役者が出てきたんですよ。おどけた役なんですがね。それを見て「また、アイヌか」というんですよ。ぼくはドキッとしたんですがね、しかし、子どもは、おもしろおかしいので、たとえば、ディズニーランドを見て「また、ミッキーマウスか」という意識と同じなんですね。それで、「パパもアイヌだよ」といったら、子どもはぼくを見て不思議そうな顔をしているんですよ。だから「パパもひげあるでしょう」といったんですがね‥‥。子どもにとっては別世界なんですね。子どもの感じるアイヌの世界というのは。
郷内 そうでしょうね。そこで、子どもの感じるアイヌの世界が、なぜ別世界におきかえられたのか、ということも問題になりますね、
H君は、五年生になるまで、自分はアイヌであったことを知らなかった、また、知ったとき、ショックもなかったというんだけれども?
H そのとき、はじめてアイヌだと認識したんじゃないですね。それまでに、家でカムイノミ(神を呼ぶ儀式)をやるのを見ているし、うちのおばあちゃんの命日になると、たくさんのアイヌの人が集まって、ラタスケップなどをつくったりして、いっしょに食べたり‥‥。ふだんの生活の中にわずかなりとも、アイヌを教えるものがあった、それが、アイヌといわれても、ショックにならなかったことにつながった、と思います。
郷内 子どもたちがアイヌであることを自覚するという形に、IさんやMさんのお話のように、時の流れにそって自然な状態の中で行われる、という場合と、これと反対に、なにかショッキングな状態の中で行われるという場合があると思います。
しかしいずれにしろ、また、自覚する、しないにかかわらず、子どもたちは、大きな社会の中にはいっていくわけです。そして、まともにアイヌという差別と偏見がおそいかかってくるわけです。
わたしの教え子のAは、アイヌについて、純粋に正しく理解し、父親からアイヌ語を教えてもらっては、学級のみんなに知らせ、また、シャクシャインのお祭りのときには、はじめて民族衣装を身につけ、よろこんで除幕式に出ていました。そのAが、小学校を卒業すると岐阜の中学に行くことになったのです。そして、ひと月たって、わたしに、手紙をくれました。(九十四ページ参照)
Aは、自分がアイヌであることをしっかりと自覚していたのです。しかし、やっぱり、そういう社会の中に投げ出されたときに、十二歳のAに、耐えられない苦しみがおおいかぶさってきたのです。わたしは、その手紙に、 ”早かれ遅かれ、おまえが生きていく過程の中で、くぐり抜け切らなければならない関門であった‥‥。このことをのり越えるのは、やっぱり、おまえ自身でしかないのだ‥‥”
と、涙をのんでも書かなければいけなかったのです。
Oさんにしても、Iさん、Mさんにしても、子どもは、親たちの家庭の中で、アイヌを自覚しているわけです。Aにしてもそうです。それでいても、このような問題が当然のように起こり、悩み苦しんでいるのです。しかし、多くのアイヌ系の子どもは、家庭の中でもアイヌがタブーという生活をしていて、実際に一人で社会に出ていって、はじめて、自分がアイヌと自覚させられたときに、どうなるか、ということです。これは、非常に重要な問題だと思います。
「脱アイヌ」
を願うこころ
若林 アイヌと自覚することが、苦しみや悲しみにつながる‥‥、いっそのこと、差別、偏見からのがれるためには、アイヌを自覚しないで、シャモになりきった方がよい。ところが、そうはいっても、アイヌである以上は、いくらシャモになりきったところで、アイヌと自覚せざるを得ない‥‥。でも、こんなことからも「脱アイヌ」ということばがうまれたのでしょうね。
K わたしの住んでいる二風谷では、七割がアイヌ系の人たちですよね。だから、アイヌとわかってショックを受けたということはないにしても、一般社会からのアイヌへの差別、偏見があるものだから、自分たちの意識の中に”おれたちアイヌだからダメなんだ”と、もう最初から決め込んでしまったものがあって‥‥。それが、アイヌはいやだ、シャモになりたいという気持ちになり、結婚するなら、バカでもシャモであればよい、というような‥‥。また、親にしても、自分と同じ苦しい道を子どもに歩ませたくないという願いからシャモを求める。シャモと結婚すると、アイヌから抜けれると考えたのですよね。
先日も集まりがあって、わたしは「アイヌであることに、自信とほこりを持たなければダメだ」といったのですがね、そしたら、若い人たちに「具体的に、どんな自信と、どんなほこりをもつんだ」と問われてね‥‥。
郷内 そうでしょうね。それがだいじなことなんだから。確かに、今のお話のような、脱アイヌを願って、脱アイヌの行動をとった時代があったんですよね。ところで、それが結果的にどうであったか、ということです。アイヌから抜け、シャモになれたかどうか。
I シャモと結婚しても、そして、生まれてくる子どもにしても、アイヌはアイヌだと思うんですよ。アイヌである以上は、どんなことしてもアイヌに変わりないと思うんです。ですからわたしは子どもに「あんたは、おかあさんの子どもだからアイヌだよ。だけど、おとうさんの方のおじいちゃんやおばあさんはちがうけれど、でも同じ人間なんだよ。日本には、アイヌとシャモがいて、北海道にいたのはアイヌであったんだよ」と教えているのですけれど‥‥。
M わたしも、脱アイヌということは、ありえないと思いますね。いくら混血しても、アイヌの血がわずかでもある限りアイヌですよ。そして、それでいいんですよ。
差別の壁ー
その現実のきびしさ
郷内 そこで、つぎに、今までの話の中でも、差別の実態が出されていましたが、もっとくわしく話し合ってみたいと思います。
Y 大正生まれの人や、昭和生まれの人が、なにか、差別されたとか、区別されたとかいうけれども、まったく、あまっちょろいと思うな。わしらの時代は、生まれる前から差別されているんだ。
郷内 そこで、山本さんが明治から今日にいたるまでの中で、一番忘れることのできない差別といえば?
Y われわれアイヌの土地、エゾをとりあげられてしまったこと。これが大ショックだな!そして、その上に重圧を加えられたでしょう。わしは、差別などはね返してきたんだから、泣くほどつらくても、どうにかがまんしてきたけどな‥‥。
それから残念なことは、脱アイヌという自らを忘れた気の毒なウタリが出たことだな。これは、先輩たちの努力が足りなかったんだ。各コタンによい先輩や指導者がいたら、脱アイヌどころか「なんだ、おまえシャモか」といっているもの!わしは今日まで生きてきて、体験も豊富なんだけれども、大正、昭和の人は、まだまだ弱いんでないかと思うんだな。わしは、苦しむ人たちに、慰めるよりも、「しっかりせ!」とどなってやりたいと思う。
K わたしらは、子どものころから、なにもかも差別されているもんだから、差別にすっかり麻痺してしまって‥‥。小学校時代での経験なんですがね。この学校では、すでに朝の出席の取り方から、もう差別されている。はじめにシャモの名を呼び、その後にわしらアイヌの名を呼ぶ。同じ弁当を持ってきても、シャモの連中は白い米のめしで、わしらはひえめし。教育にしても、いつも、大和民族の優秀さ、日本人の偉さを教え、結局は、シャモになれという同和政策なんですね。五年生のときであったと思うんだけれど、先生がシャモの子どもを何人か前に立たせて説教した。それが「おまえら、アイヌにまで負けるんでないか。だから、しっかり勉強しなければダメだ」とね。わしらそのとき、勉強できた方だったもんだから得意になっていたけれども、今、思えばすごい差別教育ですよ。アイヌはダメな奴なんだと、はじめから決めつけているんですからね。これは、先生自身もそう思っているんですよ。
M 社会が、差別することをあたりまえにしてたんですからね。わたしは、シャモと同じ学校で、一学級六十人のうち、アイヌが六人ぐらいでした。そん中で、なにかっていうと、アイヌ、アイヌ、と石をぶつけられたり、なぐられたりで、苦しめられてきました。ですから、先生にアイヌといわれると、すぐ、顔を赤くしてうつ向いていたし、友だちがアイヌというと、からだが小さくなって、なにもいえませんでした。たとえば、自分がよいことをしていても「なんだ、このアイヌ!」といわれると、からだがちぢまって、震えてしまうのですね。よいことをしても、アイヌだからといって、よいことにならないのですよ。
N ぼくも、いろいろ差別されたことがあるんですよ。学校時代では、小学校の時が一番ひどかったですね。貧乏であったからなおね。
ぼくが小学校へ入学(昭和二十五年)するときは、はいて行く靴がなくて、はだしでした。ランドセルはもちろんなし、胸にさげる名まえのハンカチがなくて、母の着物をさいてつけていきましたよ。冬になっても、セーターなどは買ってもらえないし‥‥、そのせいか、からだは丈夫でしたね。春のはじめや、秋になると、半ズボンをはいていたのですが、そのズボンといったら、つぎあてだらけの雑巾みたいなもんなんです。そのため、足の毛が見えるんですよ。それで、クラスの連中がそばにきて、しゃがみ込んで、下からながめるんですね。それが、なにもいわず、じいっと。ぼくは、それがいやでいやで、中学一年まで長欠児童であったんですよ。学校を休んで、いつも、昆布とりの仕事を浜でしてましたね。学校へ行くのが、イヤでたまらなかったんですよ。
貧困という最大の理由であったんですが、やっぱり、それ以上に、毛を見られるということが、なんとも耐えられなかったですね。
中学の二年になったとき、学校へ行ったら先生が「おまえ、一年学校へこなかったけど進級させてやる」というんですね。そこで、それだったら勉強習わなくては、と多少めざめて、まじめに学校へ行くようになったんですが‥‥。そのころになると、ぼくのことを、面と向かってはいわないんだけれど、陰でこそこそいうんですね。ぼくは、どちらかというと気の荒らい方であったし、それに体格もよかったもんですから、そいつらをつかまえて、ぶんなぐりもしたんですがね。ところが、そうすれば、先生におこられる。だから「バカにされたからだ」と話しても取りあげてくれないんですね。先生というのは。
郷内 そこでつぎに同じ差別の中でも、おとなになって、現在でもまかり通っている就職、結婚の問題について、話をすすめてみましょう。
N 結婚というのは、男と女のめぐり合いですね。だから、アイヌであろうと、シャモであろうと関係ないわけですよ、ほんとうは。ところが、たいがい、本人同志が結婚しようと決まったとき、必ずといってよいほどに、シャモ側の親とか、親戚から、反対の声があがってくる‥‥。ぼくの場合にしても、女房は広島の人間なんだけれど、そのときぼくがその親たちにアイヌだとわかっていたら、親たちから反対されていただろうって‥‥。ぼくが、女房の親たちに広島で会うとき、女房が、結婚するまでアイヌだといわないでくれっていうんだからね。この問題は、現在、どこへ行っても起こっている大きな問題ですね。
就職の問題にしても、よくありますよ。
M わたしの親戚が浦河にいるのですが、そこにいる娘のことで‥‥。
その娘は理容店に勤めていたのですよ。その理容店では、理容師の免許を持っているのは、その娘と、もう一人の男の職人であったのですね。ところで、理容店で支店を出すことになったわけです。そのとき娘は、店の主人は、町の名士でいつも忙しく歩き回っているから、本店に男の職人をおき、支店には自分が行くだろう、と思っていたのですね。ところが支店が開くと、主人の奥さんと、見習い三人が行ったわけです。そこで娘は、自分が行くものと、思っていたものだから、奥さんにたずねてみたら、「あんたはアイヌだからダメだ」という答えであった、というのですよ。娘は夜帰ってくるともう何時間も泣き出してしまって‥‥。親に事情を話すと「あしたから、あの理容店なんかいかない。床屋もしない」といって、二日も三日も寝込んでしまった。親がいくらなだめてもだめだ、というのですね。そのうちに、近くで道路工事があったものだから「わたしもそこへ行って働く」といって、親といっしょに働き出したのですね。わたしは、この話を聞いて、その理容店へ行ってみたのですが、すると「それはきょくたんにいってわたしも悪かったけれど、今までわたしは、アイヌの人を使ってきてまず、永続きしない。仕事にあきやすい。そのため、もし、支店へ責任者としてやって、ルーズになってもいやだし‥‥」というのですね。簡単にいえば、アイヌは信頼できないのだ、ですよ。わたしはこのとき、腹が立って、なぐりつけてやりたい思いでした。いまだにシャモの中には”アイヌはダメなんだ”という先入観念が強くあるのですよ。先日のウタリ協会の話し合いの中でも、このような差別の問題が山積みされていましたね。
その中で、こんな問題も出ていました。
小学校で使っている上掲用の地図なんですが、北海道、本州、四国、九州とある中で、静岡県にはミカンの絵、千島の方にはにしんの絵というふうに描かれているわけですよ。北海道はというと、アイヌと熊が描かれているのですね。この地図は産業、産物を表したのでしょうが、としたら、アイヌは産物で売ったり買ったりできるのか、これこそ人権無視もはなはだしい、ということなのですよ。
O この件については、郷内先生が三年も前から取りあげている問題なんですよ。ところが、北海道の議会で今度はじめて取りあげた、という有り様なんです。どうですか、このスローモー振り‥‥。これからは、いろんな形で出していかなければだめですね。
若林 地図の問題とは離れますが、東京にいて目につくのは、北海道の観光ポスターですね。どのポスターにも、必ずといってよいほどアイヌの絵が描かれている。だから、ある人は、アイヌと聞けば旅情をさそう、とまで、ことばがでてくるんですね。また、アイヌを知らない人たちが、サパウンペ(冠)を頭に、アイヌ衣装を身につけ、そして、熊といっしょにならんでいるポスターを見たとき、どう理解するでしょうか。
これも問題ですね。
北海道観光とアイヌ
その問題点ー
郷内 そこで、北海道の観光政策が問題になってくると思うのですが、ここでは、よく話題になる「観光アイヌ」(観光地で働くアイヌの人たち)の問題について話し合いをすすめてみたいと思います。
N ぼくは二年間、阿寒の観光地で店を出していたのですが、いろんな問題をかかえていますね。
まず、北海道の観光地に、アイヌがかかわり合っているところというと、第一に、町をあげて宣伝している白老ですね。それから、洞爺、登別、昭和新山。旭川の近文から大雪山の層雲峡方面。網走、知床、そして阿寒と。
そこで、観光アイヌのそもそものはじまりなんですがね。これは、観光写真のモデルなんですよ。かなり以前、ぼくのじいさんも阿寒でやっていたんですがね。これは、観光地の写真屋に雇われるんですね。当時にしてみれば、アイヌに安定した職業がなかったというのが、生きるためにそうさせたのでしょう。そのうちに、シャモの経営する土産屋に雇われ、店のモデルになったり、熊を彫ったりしながら、客を呼び寄せる道具になっていったんですね。現在はどうかというと、多少変わってきています。木彫りをするにも、優れた民芸品・芸術品を目指すものであったり、また、経済力のついた者は、自分たちで店を経営したりして‥‥。中には「アイヌといえばもうかるんだから」のもうけ主義になっている人たちもいますね。
白老を見ると、奥まったところにアイヌ資料館があって、そこを往復する道すがらに、土産屋が、ずらりと軒をならべているんですね。この店のほとんどがシャモのもので、よく悪質な客の呼びこみをしたり、値下げ合戦をしたり、ときには、たたき売りをしてみたりで非常に好ましくないことを行っているんですね。また、アイヌの踊りそのものも無責任で、伝統の継承などと、とてもいえない状態です。これは白老だけでなくて、個々の観光地においても、同じようなことがいえます。阿寒にしても、お客さんを呼んで、踊りを見せるんです。客寄せのために。そして、掲げる看板は”本日、熊祭り”としてね。これが毎日××祭りと変わるわけですから、そんなことを知らないお客にしてみれば「ちょうど、いいときにきたわ!」となるでしょう。まったく、だまかしですよね。どこの観光地でも、いかに客を呼び、いかに売るか、ということに専念してるわけですよ。これについては、もうけるための手段だから悪いとはいいませんが、問題は踊りの内容なんですね。確かに、アイヌにはこのような踊りがあったのだ、と見せているんですがね、これが単なる形式にしかすぎないわけです。客を呼んだから、とにかく見せればいい、といったものですね。踊りがどんなものであって、どのように見れば理解できるんだ、という説明がなにひとつなされない。ぼくは阿寒で、見てもらう人たちにわかってもらおうと「この踊りは‥‥」と、やったんですがね、客の方からでなくて、見せる側の方から、そんなことをする必要ないと、とめられてしまうありさまで‥‥。
若林 わたしは、現在の観光アイヌを見るとき、非常に大きな問題を感じるんですよ。なぜなら、アイヌを知らない人たちが、観光アイヌを見たとき、まともに、アイヌの人たちは現在でも、アッツシ(民族衣装)を着て、熊を彫って、入れ墨をして、かやぶきのチセで暮らして、わけのわからない踊りをおどって、熊祭りをやって‥‥、ととらえてしまう。また、そのようにとらえてくださいと演じてるわけですね。だから、この姿が、アイヌの人たちすべてがこのような生活をしている、と脳裏に刻まれてしまうんですよ。そしてそれが、これほど発展した文明社会の中で、アイヌだけが取り残され、いまだに原始的な生活を行っている、となって、差別感がつくられていく‥‥。ですから、観光アイヌの果たしていることは、差別の助長につながるわけですね。わたしは、なんどか観光コタンを訪ねて、いつも、この感を強くするんですがね。
郷内 これは、非常にむずかしい問題ですね。現在の学校教育や社会教育などの中でなしえないアイヌ文化なり、アイヌ民族芸能というものを、いくらかでも理解させようという面では、よいことだと思うのですが、しかしこのことに対しての価値の判断というのは、ずい分と違うわけです。
じつは、わたしは去年、阿寒におじゃまする前までは、やっぱり、ものを売るということと、踊りを披露することとは本質的に違うことであって、踊りを披露することは、単に利用されるにすぎない、という気持ちでいたわけですよ。ところが、その地で、真夜中から朝に至るまでの話し合いの中で、わたしなりに感じたことは”ともかく真剣に生きているのだ””生きる手段として、いま、これに集中しているのだ”という姿なのです。
N ぼくが観光地のアイヌでいながら、どうしてこんなにアイヌに興味をもったかというと、実は、自分が観光地でアイヌの名を使って、ものを売ることの正当性を見つけようとして勉強したからなんです。そこで、アイヌってなんだろうな、ということにぶつかって、アイヌ文化とはなにか、ということをやっていく中から、結局、人間とはなにか、にぶつかっちゃったわけです。そして、アイヌの踊りとはこういうもんなんだ、ということを、そこから手さぐりで見つけだしてきた‥‥。
郷内 そういうNさんと、完全に金銭を得るための職業として割り切っている人たちとの間では、同じ一つの観光地の中でも、大きな断層があるわけでしょう。
N そうですね。
若林 Kさんは、観光アイヌについて、どうお考えですか。
K これは、あまりけっこうなことじゃないですよね。ただ、Nさんがいったような正しいアイヌの姿を紹介する、というようにできるなら‥‥。現在行われている踊りなんかにしてもほんとうの踊りじゃないですよ。見せるためのものですよ。本来のアイヌの踊りというのは、行事の中で、みんなが愉快になってきたときに、みんなでいっしょになって踊るものであって、見せるために踊るのではありませんからね。
I だから、観光地へ行ってみてもわからないしね、こんなのがアイヌの踊りなんていえるのか、とわたしは思ってね。
若林 そういった踊りであっても観光地を訪れたわたしのような連中は、アイヌの人たちが踊るのだから、これこそ、アイヌのほんものの踊りと見るわけですよね。
H ぼくは、文化ということと、観光ということをいっしょにして考えることに疑問なんです。なぜなら、観光というのは、あくまでもお金をえるための方法だと思うからです。正しいアイヌ文化を残そうとするのであるなら、また、別な観点から考えなければいけないのではないかと思うのですが‥‥。
N 観光と一緒にすることはおかしいというけれども、それでは観光とはなにかということなんですね。文化ということばはあいまいで、ぼくはすきじゃないんだけれども、アイヌがつくりあげてきた文化というのは、アイヌ自身が北海道で生きていくための生活の手段であり、その方法であり、そして考え方なんですよ。そしてその一部として、踊りや彫刻が、今、観光地で見せられているわけです。アイヌの彫刻というのは、世界有数といえるかどうかわからないけれども、アイヌ独自のものをもっているわけです。そしてこれはすばらしいものだしね、これを現代風にアレンジしながら受け継いでいくということはだいじなことなんです。つねに、人間のつくりあげてきた文化遺産というのは、形を変えながら、人間の中で生きていくわけですね。だから、アイヌがもってきた彫刻の技術とか模様のよさなどは、現代の中に、たとえば、みなさんがしめているネクタイの中に生きていて、よいわけです。だから、そういう形で、観光地のアイヌは、正しい意味でアイヌ文化を受け継いで、そしてそれをさらに、自分たちの創造によってつくり変えていかなければいけないわけです。踊りにしても同じことがいえるわけですが、アイヌの踊りの場合、生活の中で儀式から生まれたものであって、そもそも見せるものではないわけですね。だから、現代の生活に生きていくかというと、そうはいかないんですね。これはあくまでも保存でしかない、と思うのですよ。しかし、日本舞踊を見ると、アイヌ踊りのよさを取り入れて、いいものができていますね。ぼくは、なぜ、アイヌにだってできるのに、と思ったりするんですよ。ところが、こんな考えを持っている人となればごくわずかで‥‥。
O みんな金を得るためにでしょう。
N それは、そうなんだけれどもね‥‥。
O わたしなりに調べてみたのですがね、観光地でアイヌの人たちがもうけている、といっても、微々たるもんですよ。その何百倍もの利益をあげているのが、ほかにいるんですから。そして、それがこの問題を、これほどにくもらせてきているんですよ。
最近では、観光コタンへ行くと、アイヌ系でもないシャモの人たちが、マジックで入れ墨を描き、アイヌ衣装を着て、どんどんやっていますね。夏になれば、大学生がアルバイトにまでやってきたりして‥‥。これは、どういうことでしょうか。以前、道議会で問題になったように、アイヌを平等な人間として、日本人として認めていない。その方が、北海道の観光宣伝には、よりあたいするものだという見解‥‥。アイヌは、客寄せの、たんなる道具でしかないのですよ。わたしは、Nさんのような考えをもった人たちが、観光地で活躍してくれるのならけっこうだと思いますが、しかし、現実はあまりにも遠すぎます。でも、だからといって、やめろともいえない。なぜなら、その人たちのこれからの生活の保障がないのだから‥‥。
郷内 しかし、観光地に住むウタリたちは、どうあれ、精いっぱい生きているんです。その切実性の上にあぐらをかいている観光コンサルタントとか、企業経営者の考え方、そのやり方を正しくさせていかなければいけない。これはOさんのいうとおりだと思います。そこで、これから、この問題を、我々の内なる運動としてどう向かっていくか‥‥。
「観光問題」解決の
手がかりとして
N 観光地のシャモの人たちは、こういうんですね「店にある熊の木彫りでもなんでもアイヌがつくったもんじゃない。おれたちがつくったものだ。」ぼくはそのとき「それじゃ、アイヌという看板を使うな」というんですよ。これをすすめるべきだと思うんですよ。
O そうですね。
N 今の法律では、意匠登録などはできませんから、大きな組織力をもって、観光業者に対して、我々が認める以外のものは、アイヌの名を掲げるな、という方向ですね。アイヌの風貌を人形に彫って売るなんてことはとんでもないことですよ。これは、表現の自由以前のアイヌ民族の名誉にかかわることですから‥‥。ところが、ここが少し問題なんだな。じゃ、我々が武士の姿を彫って売ったら、彼ら怒るかということなんですよ。
郷内 だから、ニポポ(人形)に表れるような特徴的なものを強調した形のもの‥‥。「これがアイヌの顔なんだとさ!」と、茶の間あたりにおかれるのと、博多人形がおかれるのでは、大きな違いがありますよ。それにもう一つは、ニポポに関連して、イナウ(神だなに供える御幣)なんですがね、わたしは、イナウが売られている実体を見て、がっくりしてしまって‥‥。
N うちのエカシは、以前、こう話していたんですよ。「熊は彫ってもいいけど、しかし売るな」と。ましてやイナウなら、とんでもない話だとなるんですが、現在は売られているんですよ。
それと、民芸品を安売りしない、ということですね。
ところで、ソ連では、たとえば、コザックの連中は、現在でも自分たちの民族衣装をまとって胸を張って堂々と歩いているというのですね。ほこりをもって生きているんですね。在日朝鮮人でも、最近は、民族衣装を着るようになりましたね。これはいいことだと思うのですよ。だから、アイヌも、自分たちのほこってしかるべき衣装は捨てちゃいけませんよ。そういう意味で、一つには観光客の見る意識の問題ですね。
O 現状の観光の施設の中で、そして、短い休憩時間の中で、客に要求するのは無理ですよ。ですから、はっきりと時間を決めて、最低三十分ぐらいは、正しいアイヌの説明をし、それを聞いた人のみ、踊りを見せるというようにでもしないと、無制限な間口では、とてもじゃないが期待はできませんよ。もし、そういう正しいことができるのであれば、わたしは札幌にも、そのような施設をつくりたいですね。わたしたちアイヌの手によってつくられた手彫りの民芸品を売る施設もね。これは、個人の要望でなく、みんなの要望として、市なり、道なり、国へと叫んでいって‥‥。
”北海道にきてアイヌの踊りを見た。そして、過去の歴史と現在というぜんぜん知らなかったものが、このチャンスで知ることができた、それだけでも北海道へ旅行しにきた価値があった”と帰っていく人たちの口づたえがアイヌ民族を正しく伝えてくれるのですね。こういったことを、わたしたちはやっていかなければなりませんね。
郷内 意をつくせぬ部分がたくさんあったと思いますし、語れば、三日でも四日でも、なお語ってもつくせないものが、まだまだあります。しかし、このような対話が、三時間でも五時間でも、もてるようになったということを率直に評価しなければならないと思うのです。このような対話を、これからも数多くもっていきたいものです。
ご苦労様でした。
(時間にして、五時間、原稿用紙・四百字詰で三百枚近くを、このように省略せざるをえませんでしたことを、おことわりしておきます。ー編集部)
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