30. 若者として           農業 二十三歳

 アイヌとして生まれてきた者ならば、だれでも受けてきたであろう、シャモのアイヌに対する差別を‥‥。ぼくも幼いころから、いやというほど受けてきました。

 これらの屈辱は、いまだにわすれられない事ばかりです。

 小学校へはいる前は、別にシャモの子にいじめられた事はありませんでしたが、入学したそのときから、学校への行き帰り「アイヌ」「アイヌ」とバカにされ、なんで自分だけがそんな事をいわれなければならないのか、と思ったものです。

 学校内でも、上級生から「おい、アイヌ」といわれ、だまっていると、うしろからこづかれたり、けられたりして、いつもけんかばかりしていました。

 ぼくの家は、町から三キロメートルほどはなれた”フラツナイ”という部落で農業を営んでいたので、学校への通学は四十分かかります。ですから学校の往復の時など、町はずれにくるまで、小さい子どもたちにまで「アイヌ」と、バカにされてきました。

 それでも、一、二年のころは、バカにされるのがくやしかったぐらいで、アイヌに生まれたということで悩んだりはしませんでした。それが、三年生になったころから、しだいに劣等感をもつようになり、他人の目を気にするようになっていきました。

 ただ、アイヌに生まれただけで、なぜ、こんな思いをしなければならないんだろう‥‥、と思うと、学校へも行きたくなくなりました。

 そのころ、同じ部落の子どもたちの中で、学校へいくのを嫌い、非行の道に進んでいった者も少なくありません。先生や親たちのアイヌ差別に対する理解と指導があったなら‥‥と、考えさせられる問題です。

 ぼくの場合、父親はいませんでしたが、祖母のしつけが厳しく、学校へはなんとか行っていましたが、今、考えてみると、そういう厳しい祖母がいなかったら、きっと非行少年になっていたかも知れません。

 ぼくは、上級生になってくると、他人より毛深くなってきて、身体検査の時などはずかしくて、どうしてアイヌは毛深いのだろうと悩んだりもしました。

 それでも、六年生のころから友だちも多くなり、劣等感はだんだんとほどかれていきました。

 話し合えるよい友だちができたからです。

 中学へはいってからは、意識的に自分の中に植え込まれた劣等感を取り除こうという気持ちが強くなりました。

 ぼくを「アイヌ!」と差別してきた連中は、自分より劣る人間だ、と自分自身にいい聞かせ、アイヌだからと恥じることはない、そういう差別に負けない人間になるんだ、という信念をもちはじめました。

 ぼくが中学を卒業する間際、祖母が亡くなり、心の支えを失ったようなショックを受けました。姉に、祖母が亡くなっても高校だけは行くように、と強くすすめられ、なんとか高校へ入学しました。

 高校へはいってすぐ、身体検査がありました。

 そのとき、担任の先生に、
「中学のときは、皆と一緒にやっていたのか?」
と聞かれ、
「そうです。」
と答えると、
「じゃあ、いっしょにやってもいいな。」
といわれました。

 ぼくは、高校へきてまで、そんな目でみられていたのか、と腹がたちました。
みんなと別々に身体検査をするということ事態が、アイヌを差別していると思ったからです。

 それでも、他人がどう思おうと、自分が気にしなければよいのだと思い、高校時代はその気持ちをもちつづけてきました。

 僕が高校を終わるころ、姉は”ペウレ・ウタリの会”というアイヌ問題と取り組むグループにはいっていました。

 この会は、昭和三十九年(1964)の夏、北海道内のある観光地で働く若者たちの友情から、親睦グループとして誕生しました。しかし、会員が増すにつれ、アイヌと和人との間に心の壁が生じ、単に親睦を深めるというのではなく、アイヌ問題を真剣に考えるものでなくてはならない、と発展していったのです。

 当時、東京に本部があり、北海道内に各支部がありました。姉は”十勝支部”に所属していました。

 姉は僕に入会をすすめましたが、
「自分が強ければ、アイヌ問題に悩むことはない。自分自身がしっかりしていればいいのだ。」
といって、入会しませんでした。
ぼくが高校を卒業した年の冬、季節工として東京に働きに出たとき、姉が、ぼくの考え方では、ただ、利己主義的なものになっていくと心配して、東京の会員に連絡をとっていたようでした。そんなこともあってか、例会があると「入会しなくてもよいから、会に出てみないか。」と誘われ、何度か出席してみました。

 その中わかったことは、自分が今まで、小さな殻にとじこもり、周囲に目を向けていなかった、ということです。

 ぼくはがアイヌ問題と取り組んでいったのはそれからです。

 東京から帰ると、すぐに”ペウレ・ウタリの会十勝支部”に籍をおきました。

 会の人たちと話し合ってみると、自分が知らなかった問題が、いろいろと出てきます。

 就職のことでも、北海道内では、アイヌの子を雇わないというところがあり、そのため東京方面とか、観光地へ行って働くという事実‥‥。真面目に働いていても、周囲の差別に耐えきれず、職場をやめてしまうという事実‥‥。

 ぼくが一番悲しく思ったのは、アイヌがアイヌを差別するということです。

 ぼくの友だちで、アイヌの娘を好きになり、知人を通じて結婚を申し込んだところ、その娘の親は「アイヌの嫁にやるくらいなら、かたわでもよいからシャモにやった方がよい」といって断ったそうです。

 どうして、同じアイヌ同志でこのような考え方が生まれてくるのでしょうか。

 われわれアイヌは、むかしから和人の権力に押さえつけられ、差別されつづけてきた、その歴史が、アイヌの血を薄め、アイヌから逃げ出ようと考えさせた‥‥。

 少なくともぼくら若者たちは、このような考え方を持ってはいけないと思います。アイヌの血が流れている限り、アイヌの心を忘れてはいけないはずです。

 ぼくらアイヌの若者たちは、皆、真剣にアイヌ問題と取り組み、いろいろな問題を解決していかなければなりません。

 現在、ペウレ・ウタリの会は、東京の方は自然消滅し、ぼくら十勝の会に、数人会員がいるだけです。でも、以前と違って、しっかりしたアイヌの会員ばかりです。

 それに、ペウレの会員ではなくても、ウタリと教育を守る会をはじめ、多くのところで話し合っていく仲間ができています。ほんとうにうれしいことです。

 これからは、この仲間たちと、アイヌの歴史、アイヌ語などを勉強しながら、アイヌ問題と取り組んでいこうと思っています。そして、自分がほんとうにアイヌであり、りっぱな日本人であるという自覚を高め、自分の生き方に誇りをもてる人間になりたいと思います。

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