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立場に応じた一貫性を持とう

こんにちは、ボードゲーム好きVtuberのテトランパトルです。
僕はnoteというものをどのようなものを考えているのでしょう。
今回は、心の中でもやっとしたことがあったのでそのことについて簡潔に述べていきたいと思います。
こんな使い方でええんかな……ええんかも……


なぜ攻撃性を発露してしまうのか

いいな、いいな。人間っていいな。何が良いんでしょう。いくつか挙げられそうですが、今回は「多様性」という言葉を選択してみます。
多様性とは違うこと、人間の間にあるさまざまな違いを許容する思想であると定義します。みんな違って、みんな良い。なんてのは綺麗事かもしれませんが、その綺麗事を社会の中で大真面目にやろうとすることが、ある種大切なことなのかもしれません。
ただまあ、一般的に考えた場合、やっぱり違うということは排斥の理由になっちゃいがちなのではないでしょうか。SNSでの他者に対する大小問わずの誹謗中傷を見ていると、さまざまな違いというのが発端になっていることが多いように思います。
少なくとも、攻撃性を発露する理由の一端に、自分と他者の間にある違いが関係している可能性はそこそこありそうな気がしています。


「自分のために」攻撃しているのでは?

でも、その「攻撃」って本当に必要ですか?
「攻撃」を誹謗中傷というと語気が強いかもしれません。説教とか、集団での押しかけとか、色々と言い方はあると思いますが、とにかく自分の意見を武器にして他者を排斥しようとすることを「攻撃」と定義します。他者の意見に対して反論を行うこと、異なる意見を表明することではない点には注意してください。
「多様性」って、実際のところめちゃくちゃにストレスがかかる思想だと考えられていて、他者と自分の違うところを許容し、容認するということが普通に生きていく上で相当な負荷になるらしいんですよね。
つまり、ある意味において「攻撃」をすることは、自己のストレスを解消するための行いだと言えるのかもしれません。

その被害者仕草はさすがに無理では

自身のストレスを解消するために他者を「攻撃」する!!!!!!
いやもう字面が結構最悪なんですが、まあまあこれに関しては一定理解が及ぶところはあります。
ストレスというのも行き着く所まで行ってしまえば命の危機に陥ることもありますからね。他の方法で発散できなくて、やむを得ず「攻撃」によって排除を試みてしまう。褒められたことではないかもしれませんが、数多の人間が寄り集まって生活している現代社会、こうしたことが起こってしまうのも仕方がないのかもしれません。

ただ、「攻撃」した相手が反撃して来たときに被害者ぶるのは違うんじゃないか?
というのが今回僕がもやっとしている内容になります。長かったね。ごめんね。

自分たちが排除しようとして「攻撃」した相手や、相手が属する意見・意志を持つ人達から、自分たちがしてきたような「攻撃」を受けたとき、さも「攻撃」を受けた自分たちが被害者だ!あいつらにやられた!みたいな仕草を見せる方々を確認してしまったんですね。

いや、ちゃうやん。最初に手ぇ出したのそっちやん。
第三者、純野次馬視点からそう思っちゃうぐらいの清々しい被害者仕草でした。本当にすごい。


主義主張の正当性を担保するのは一貫性

「お前の始めた物語だろ」なんてネットミームがあったりなかったりするようで。
自分が始めた行いを自分自身の都合でやめてしまうと、過去の自分の行いが過ちであったことを認めてしまうことになる。つまり、自身の行動の正当性が失われてしまう訳です。だから、過去の自分も、今現在の自分自身も否定しないために、自分の始めた行いをやめることができない。自縄自縛に陥る。そんな感じではないでしょうか。

翻って、今回の件に当てはめてみると。
自分の都合で「攻撃」を始めたのに、相手から反撃を受けたことでさも自分たちが「攻撃」された側の被害者であるように振る舞うということは、そもそも自分たちが「攻撃」を始めた理由であるはずの主義・主張の正当性を損なうということだと考えられます。
本末転倒というか、論ずるに値しないというか、自分自身の意見や主張なんてどうでもよくて、相手を貶めることの方に重心を置いているのではないかと疑いたくなること甚だしい所業です。
いやまあ実際そうなのかもしれませんけどね。せめてもの体裁として、自身の立場を踏まえたうえでの一貫性の保持ぐらいはしておいて欲しいものです。使われる主義・主張が可哀想ですから。


まとまらないけどまとめなければ

「立場」というのは誰しも何かしら持ち得ているものです。それは「属性」と言い換えることもできます。多種多様に渡り、一人の人間がいくつもの「立場」を持ち社会の中で、あるいはより細かな集団などの中で生活をしています。
それぞれの「立場」に応じた主義・主張はあってしかるべきで、しかしてそれらの主義・主張には「立場」に応じた一貫性が備わっているべきでもあります。
ダブルスタンダードという言葉に良い意味があると考える人はそうそう居ないでしょう。一貫性がない主義・主張とは、言ってしまえばダブルスタンダードのようなものです。だいぶん違うかもしれませんが、まあそんなもんだと僕は思います。
一本筋を通せば、そこには理が生まれます。あなたの主義・主張を大切にしてあげてください。それは誰かを貶めるためだけに使われるような、安っぽいものではないはずです。たぶんね。

そもそも誰かを排除するような「攻撃」をしないで欲しいなあとか、思うんですよね。難しいことかもしれませんけども。頼んますよ。切にね。