特別児童扶養手当が通った
通称:特児。
要は『育てるのが大変な子どもを育てている養護者に、その子どもを育てる環境を整えるための支援金を出しますよ』ということである。
でもこの特児、大抵の自治体で
「IQがある程度高いと出ない」
「投薬していないと出ない」
「手帳を持っていないと出ない」
…など、傍目から見てわかりやすい状況がないと承認されない…というのが一般的に多い。
次女は多動が激しかったので、幼稚園のときに特児を出してもらえている。待合室でも診察室でもまともに止まっていられず、そもそも検査も最後まで受けられなかった。途中で検査終了したのに平均値以上だったのは凄いとしか言いようがないが、明らかに「大変そう」というのは伝えるまでもなく伝わったようで。
しかし比較的おとなしい長女は今まで何度も"端から見てわかるかどうかで養育の大変さを判断する"っていうものに振り回されてきた。
”IQ高いから大丈夫”
”大人しく出来るから大丈夫”
…という、謎の根拠による突き放し。
IQを測る検査、私自身も受けてるし立ち会ったこともある。
けど、あれによって『生きることの困難さ』がいったいどれだけ推し量れるというのか。
あからさまに出来ないとわかっている相手に対してのほうが、人は優しくできることは多々ある。出来ないことが見えているからこそ優しく出来る。
見えない困難さに手を差し伸べるのはあまりに難しい。
目が見えない人に面白い本は勧めない。
耳が聞こえない人に良いイヤホンは勧めない。
人は、出来ないことがわかっている人に、出来ないことを勧めない。
IQが低いというわかりやすい指標があるということは、ある程度出来ないことが多いことを理解してもらいやすいのだろう。
だからこそ多くを無理強いされることも少ない。
(そこが本人の自尊心を傷つける事もあると聞くので、一長一短とは思うけれども)
わかりやすい困り感が見えていると支援も受けやすい。
IQがある程度低ければ、特児は大抵支給されるそうだ。
長女はIQが高いゆえに、それなりに出来ることもあったので
「あなたなら出来るでしょう」といろんなことを求められた。
そして出来なかった。
その都度「なんで出来ないの」と言われた。
それはIQでは測れない部分の「本人が出来ないこと」だった。
娘は「なんで」の洪水に飲まれて、集団に上手に入れなくなってしまった。
私も同じようなことがたくさんあった。
成績は良かった。
でも人と話そうとすると上手く話せなかった。
人の話を聞こうとしても、話が長くなれば覚えきれない。
上手く出来なかったとき周りの人は言う。
「なんで」
「なんで」
なんで出来ないのか、なんて、私が一番わかっていない。
むしろ私が教えてほしかった。
知識が深まるにつれ、その「なんで」の答えが見つかった。
それでようやく私は「できない」理由を人に伝えることも出来るようになってきた。
自分自身についても、子どもについても。
でも結局「長い話を聞いているとだんだん理解できなくなる」という困り感は端から見てよくわからない。どこからがわかっていて、どこからがわからなくなったのかなんて見えない。
私自身ですらも、どこからわからなくなっていくのか自分で判断することが出来ない。
わかりやすい指標がなければ楽に生きられる子なわけではない。
むしろ、わかりやすい指標がないからこそ生きづらい子だっている。
一見ちゃんとできそうと思うからこそ、人は期待してしまうものだから。
もちろん、IQが低い故にたくさんのことを上手く理解できずに人と意思疎通が出来なかったりして大変な子がいることももちろん知っている。
ただ、今回の話はそれとは別。
『IQが高いなら大変ではない、というわけではない』という話。
娘は学校に行けたり行けなかったりする。
行けても数時間しか行けなかったりもする。
それならいっそ丸一日家にいてくれる方が私としては実は楽だ。
送迎も声掛けもしなくていい。
でも、家庭という小さなコミュニティだけで子ども時代を過ごしてしまうことは、私としてはとてももったいないと感じていて。
そもそも私自身子どもと関わることがとんでもなく下手である。
そんな私と二人きりで過ごすというのは、人と関わる経験値の取得機会を逃しすぎではないか、と思う。
脳が大きく育つそのときに、他者と関われる場面はたくさん持っていて欲しい。
だから1日1時間だけでも学校に行きたいと言ってくれるなら連れて行く。
学校じゃなくてもいい。デイサービスでも、自治体のイベントでもいい。
本人が少しでも意欲的に「行きたい」と思ったならつれて行く。
友達と、先生と、良い時間を過ごせたんだと嬉しそうに話すのを聞くとホッとする。その時間のために、私は動き回っている。
私は、子育てにおいて、どんな勉強よりも「人と関わる時間」の経験に重きを置いている。
勉強は学びたいと思ったら70歳からでも出来る。
でも子どもとして無邪気に人と関われるのは、子どもじゃないと出来ない。
人はひとりでは生きられない。他者と上手に関われたら、出来ないことがあってもどうにかなると思っている。
他者と上手に関われない私がそう思っているのも、何だか滑稽だけれども。
とはいえ、だからこそ、私はたった1時間しか居られないとしても子どもを学校に送迎する。玄関まで連れて行ったもののやっぱりダメだった、となる日だってある。
3時間行けると言われて連れて行ったけれども、やっぱり1時間でお迎えに来て下さいと連絡が来たこともある。
去年までは上の子と下の子で小学校と幼稚園に環境が分かれていたから送迎とかが大変だったけど、今年からはふたりとも小学生だし楽になるだろうと思っていたが甘かった。
それぞれの登校時間と下校時間のズレ。
それぞれが各々違うことで学校生活に難を示す。
一日のうち、私は何度も学校に行ったり来たりする。
そのスキマ時間で、仕事をする。
大きな仕事は受けられない。受けてしまったら、子どもの急なトラブルに対応することがおそらく難しくなるから。
だから、稼げる額は、たかが知れている。
ちなみに今仕事として頂いている漫画は、noteでの文章がとても良かったという理由でお声掛け頂いている。noteは記事を書くだけでは全くお金にならないが、お金になることがすべてとは限らないと実感する。
私はただ、スキマの時間でやれることをする。
子どもが楽しい時間を家以外の空間でも過ごせるようにしながらも、ある程度は家計にお金も入れたい。
でも、子どもが不安定な時期が続くと送迎機会が増えたり、在宅中そばに寄り添っていなければいけなくなったりするためスキマ時間すらもほとんどなくなる。
スキマ時間がなくなればリアルに収入は減っていく。
学校を休めば昼食にお金がかかることもある。
給食が嫌だと言われればお弁当を作る必要もある。
本人がどうしても難しいことをやり遂げるために報酬が必要なこともある。
ものにこだわりがあって、それを手に入れる必要があることもある。
私自身が疲れてしまって、食事を作りたくない日もある。
こころの余裕が欲しかった。
不安定な子どもに向き合う中で「お金に余裕がない」ということばが脳裏によぎるたびに私自身のこころの余裕は奪われていく。
余裕が奪われると、どうしても、笑えないことが増える。
笑えないだけならまだいい。怒り出す事も増える。
それは、あまり良いことではない。
長女の特児があったら、少しは違うだろうか。
そう思った。
*******
「ダメで元々、申請出してみたいんですけど」
診察のとき、病院の先生に私は伝えた。
「IQが高い子に特児は出ませんよ」
淡々と、流れ作業のようにPCのモニターを見ながら先生は言う。
何でIQが高いっていうだけで出ないって断言するんだよ、と思ったけれど、とにかく診断書を出してもらわないことにはどうしようもない。
作り笑顔を貼り付けて
「学校行かない日が続いたりすると、私も仕事が出来ません。
なのに色々お金がかかるようになることは増えるんです。
だから特児が出たら助かるんです。
もしかしたら出るかもしれないでしょう」
一生懸命、IQでは測れない大変さを伝える。
先生は何だかんだと言って、診断書を書くことを渋った。
機嫌を損ねて書いて貰えなかったらどうにもならない。
そう思ってしばらくは笑顔を貼り付けて、言いたいことを腹に沈めていた私だったが、いつしか気持ちが昂ってしまって気づけば喧嘩みたいになってしまった。
「なんでIQが高いだけで支援が必要ないって言われなきゃいけないんですか!?IQが高くても出来ないことがあって、本人はそれでたくさん苦労しているのに」
そんなことを私は泣きながら訴えた。
正直、具体的に何を訴えたのかももう覚えていない。
けど、感情的になってしまったと、後からそれなりに落ち込んだ。
とはいえ
「どうせ出ないと思うけどね。書きますよ」
…最後に先生を根負けさせることは、出来たのだった。
ダメで元々。
診断書の発行費用がただ無駄になるかもしれない。
感情的に主治医と口論してしまった気まずさも残るかもしれない。
それでも賭けてみたかった。
泣きながら食ってかかってきた面倒な親がいる子どもの診断書の内容が、一体どんなものだったかはわからない(封筒はしっかり糊付けされ、見られないようになっていた)
*********
そうやって勝ち取った診断書を添えた申請。
なんと、今回、通ったという通知が来た。
ふわりと、体の力が抜けた。
これで少し気持ちに余裕が出る。
結局金なのかよ、と思ってしまうところはもちろんある。
でもやっぱり、お金で解決出来る問題というのも、たくさんある。
ここ数日、頭が痛くて痛くてほとんど仕事が出来なかった。
夕飯も作りたくなかったが、仕事も出来ていないし、ここ最近いろいろ出費がかさんでいたから食費ぐらい節約しなきゃと思っていた。
しかし偏食の子どもたちは何を作ってもなかなか食べてくれない。
献立を考えることも億劫だった。
「おかーさん、きょうのごはんはなあに」と大きな声で聞いてくる次女の声が耳の奥に突き刺さる。
思わず「うるさい!!!まだ考えてない!!」と怒鳴り散らす。
なんでこんなことで怒鳴ってしまうんだと思いながらも、頭の痛みが思考をかき消していく。
そんな日に届いた一通の封筒。
一気に気持ちが軽くなった。
すぐに、夫に「仕事から帰ってきたら子どもたちとコンビニに行って夕飯を買ってきて欲しい」とLINEした。
子どもたちはコンビニで自分の好きなものを買えると聞いて大喜びした。
私は額に冷えピタを貼って、堂々と寝込んだ。
普段飲みたくてもちょっと我慢している、セブンイレブンのスムージーを買ってきてもらった。美味しかった。
たかだかそれだけのこと。
だけど、それが出来ることがありがたくて仕方なかった。
IQが高いから、手帳がないから、薬を飲んでないから、大人しく出来るから…
”だから、別に困っていないですよね?”と、支援の手を差し伸べてもらえない、外側に伝わりづらい困り感を持った親子の元に、飲みたいスムージーを迷いなく買える程度の心の余裕を。
これが「児童の福祉」に繋がるものなのかはわからない。
けれど、親子の気持ちが健やかにいられることこそが、子どもの福祉において一番大切なことなんじゃないだろうかと私は思っている。