記憶




世はもうGWですか。
変わらず おうち時間 を楽しんでます。
どうも、モノです。
最近はお菓子作りとジグソーパズルとSwitchをグルグル回してます笑







あの日、私は心不全で失神した。


あの日の途切れた記憶の中にあるのは
買ってもらったばかりでまだ傷のついていないピカピカのランドセルをアスファルトに押し付けるような形で、仰向けに倒れたこと。


自分の登校班と他の登校班の見知らぬ上級生が周りを取り囲み、名札に書いた私の名前を呼んでくれたこと。


なかでも、6年生3人が1人は私の家に戻り母を呼びに行き、もう1人が周りの大人に救急車を読んでくれるように頼み、もう1人は私のそばに居て名前を呼び続けていたことが1番よく覚えてる。


数分もすれば呼びに行ってくれた6年生と祖母・妹・母が走って来た。
耳元で母が泣き叫ぶような声で名前を呼んでいた。
祖母は手を握り、妹は泣いていた。


そこからの記憶はない。

誰かが呼んでくれた救急車に乗り込んだんだろう。
次に目が覚めた時には、かかりつけの病院に行くまでに中継した病院の処置室だった。


そこで、とりあえずの処置をしてもらったのかまた気を失って次に完全に目が覚めたのはいつもの病院の病室だった。


母によると、肺炎になってしまったと聞いた。
肺炎か。危うく死ぬところやないか。と子どもながらに思いながらもそのまま入院


もちろん、小学校生活初めての運動会は欠席


ここからが本当のどん底の始まりだった。


目を覚ますのが怖い
恐らく普通に生活していれば小学校1年生が味わうことの無い感情だと思う。


私はこの時期、毎日毎朝
目を覚ますのが怖かった。


入院生活を1日1日全部覚えてはいないけど、昼寝なんてまずもってしない私がこの入院中で毎日のようにし始めた。


面会に来てくれた母がベッドサイドで見守る横で、尋常じゃないくらいの眠気に襲われることが頻繁にあった。


昼寝をすれば自分の時間が増えて、洗濯ができるし体力の温存にもなるからといつもは褒められるべきなのに、何故かウトウトし始める度に母はすすり泣いていた。


そして、様子を見に来た看護師さんにしがみつくように泣きながら母は決まってこう聞いた
「一体どうしたらいいんですか。」と


意味がわからなかった。
ただの肺炎なのにどうして母はあんなに泣いているんだろう。


そして、昼寝から目を覚ます度にベッドサイドに置かれる医療機器が日毎に増えていた。


肺炎の割になかなか回復が見られない。
何かがおかしいんじゃないか。


あれは、確か水曜日の話
母は小さかった妹を連れての面会は週に3回が限界で、面会に来れない日があった。その日は面会のない日だった。


昼前に、看護師さんに言われるがまま車椅子に乗せられてそれはそれはたくさんの検査を受けまくった。
午前中で終わるんだろうと思ったのに昼ごはんを挟んで午後からもとにかく検査しまくった。
エコーやレントゲン、採血にその他諸々


これで終わったから病室帰ろうね。
そう言われて病棟に戻るとM先生もY先生も慌ただしくナースステーションに居て私の帰りを待っていた様子だった。


Y先生は私を見つけるとすぐに駆け寄り私の爪をまじまじと見つめて、聴診器を当て、M先生に何やら指示をしていた。


その一時間後くらいにM先生が私に
「今からお母さんお父さん来るよ。」
といった


この時既に時間は夕方。
え、こんな時間に来るん!?おかしくない!?
いつも来るなら昼前やん。と思いながらも頷いた。


その日はやけに色んな看護師さんが私の様子を見に来てくれた。
SpO2モニターもいつもならベッドサイドに置いてあるのに、病室の入口の廊下から見えるところに置いてありそこから私に繋がっていて、少し下がると慌ただしく色んな人が来た。


まだ小さかったからこのモニターの数値が下がっていつことがどんなに危険なことか分かっていなかった。


私のベッドは病室の入口のすぐ横で窓から病棟入口が見えるようになっていた。
あれは確か、19:00過ぎ


あ、ママとパパ!妹も!
見つけた途端に嬉しくなった。
何か本でも買ってきてくれたかなとか
ゲームをオネダリしようかなとか呑気に考えていた。


でも、父と母はエレベーターホールに2歳の妹を置いてM先生とY先生に連れられて病室とは真反対の方向にあるカンファルームに入った。


いつもならカンファがあったとしても先に部屋に来るのに。
そういえば病院に来ると言うのにママはメイクをしていなかったな。
パパは会社の制服のままだったな。
明らかにいつもと違う雰囲気を感じた。


この日の夕方くらいから、座っているのが辛くなった。息苦しさと座っているのに身体がふらつく感覚があって。誰かに背中を支えてもらわないと若しくは背もたれがないと座るのが辛かった。


身体は辛かったけど、誰もいないエレベーターホールに妹が一人ぼっちでいるのを見ていられなくて看護師さんにエレベーターホールまで行かせて欲しいと懇願した。


車椅子に乗り、点滴台を連れて、鼻には酸素チューブ
身体はフラフラするけど妹のためだ。と思いながらエレベーターホールまで行った。


2歳だった妹はさすがにびっくりしていた。
最後に会った時はこんなに辛そうじゃなかったからかな。


妹を見ながら 可愛いな 可愛いな 可愛いな と思いながら父と母の帰りを待った。


1時間ほどした頃にカンファルームから父と母は出てきた。母は目を真っ赤に腫らしていたし、父も今まで見た中でいちばん切ない顔をしていた。


そこから、妹に別れを告げて病室に3人で戻った。
いつもなら部屋についても父と母が来てくれている日は興奮してマシンガントークに拍車がかかるが、ベッドに着くとすぐに横になった。


その姿を見た2人は悲しそうだった。
寝付きの悪い私が電気を消すとすぐにウトウトし始めた。母は父に肩を抱かれながら泣いていた。


後から聞いた話だけど、あの日カンファルームで


『言いにくいですが、いつでも連絡が取れるようにしておいて下さい』


と告げられた

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