人権はなぜ必要か?

 享受していながら違和感があるものとして、人権という概念がある。
 人権とは何だろうかとずっと考えている。
 この概念を生み出した大前提は、生きるということが安全と安心の確保であることだと思う。人間以外の動物は、自分たちが置かれた環境の中で生き延びられる装備を生まれつき持っている。手長猿の手の長さは好みや流行として選んだものではなくて、それが手長猿の置かれた環境の中で手長猿の安全と安心を確保するための決定的な機能だからだ。手長猿の意思の届かないところで装備されている。

 人間の場合、群れて複雑な社会を作ることが環境を生き延びる装備だから、特定の環境に特化した身体的な能力がないにもかかわらず、さまざまな環境において、長い手ではなく、社会を使って、自分たちの安全と安心を確保することができる。
 手長猿が自分の長すぎる手を恥じてもどうしようもないように、人間が群れて生きることを好まなくても、どうすることもできない。
 
 人間の群れは、他の動物の群れと違って、複雑で高度な社会を作っている。そのため、人間は、自分たちの群れの中でも、自分たちそれぞれ個人の安全と安心を確保する必要があるようだ。
 どういう意味かというと次のようなことだ。群れをなす動物の場合、たとえば、狼が群れを成して狩りをするとき、狼の一匹一匹の狩りに対する意欲、モチベーションが問題になることはなさそうだ。狼にとっての安全と安心の確保は群れを成して狩りをすることで大体のところ達成されるからだろう。
 人間の場合は、群れを成して何事かを行う場合、群れを成すひとりひとりの人間、つまり個人の意欲が重要だ。人間が群れになって仕事をする場合、もっとも実行の成果が低いのは、群れを成す個人たちがいやいや仕事をやらされているときだ。だから、個人たちを奴隷として働かせると、単純な力仕事くらいしかさせることができない。

 人間が群れを成して複雑で高度な社会を作る場合、群れを構成する個人が個人として尊重されているという思いが必要なのだと思う。自分はかけがえがない、他の誰とも違う自分だと信じているから、社会の中で複雑な役割を振り当てられてもそれを引き受けることができる。そして、その仕事をしたことが、他の誰とも違う自分である、自分は社会にとって必要なのだという信念を証拠づけることになる。
 だから、人間が群れを成して複雑で高度な社会を作るには、そもそも人間に「私は個人だ」という信念がなければならないことなる。他の誰かと区別のつかない、自分でなくても他の誰でもかまわない存在でしかないとしたら、複雑で高度な社会の一員として働く意欲が人間にはわいてこない。
 「私は、私として役に立っている」という思いが、複雑で高度な社会を支える個人には絶対に必要なのだ。この思いがあるとき、たとえ奴隷がいやいややらされるような単純な労働であっても、社会を構成し維持するために欠かせない仕事のひとつして(実際そうなのだ、例えばゴミの回収や屎尿の汲み取りなどは単純な労働かもしれないが、これらがなければどんな高度な社会も崩壊する)意欲を持って取り組むことができる。

 複雑で高度な社会では、狼の群れのように、どの個体も走る能力が必要で十分だというわけにはいかない。個人によってさまざまな能力が求められ、その能力の違いが、複雑で高度な社会を生み出している。
 ここで問題になるのは、個人の能力にさまざまなものがあることで、それは有能と無能という差別も生み出すことだ。
 実際、人間の群れ、つまり複雑で高度な社会では頭のいい個人が最も有能だとされる。人間の群れでは、支配者とは巧みに支配する頭のいい者のことだ。
 けれども、能力による順位づけがあからさまになると、群れを成す個人の意欲が低下してしまう。どの個人も、それぞれの能力でできる仕事を喜んでやることが、人間の群れ、つまり複雑で高度な社会では必須の条件だ。

 このことは、イギリスやフランスやドイツなどの現状をみればわかる。ヨーロッパ人は文化的にいわゆる底辺労働とは奴隷にやらせる卑しい仕事だと思っている。そう思うから無理やり働かせる奴隷という存在もあったのだ。
 人間の群れを成す個人を知的な能力で順位づけて、知的な仕事から遠ざかるにつれてその仕事を軽んじ、その仕事をする個人を見下すような群れでは、複雑で高度な社会の維持は難しくなる。そうした社会は活気を失い、停滞してゆく。

 そうならないためには、個人を能力で順位づけするのはやめなければならない。それどころか、個人はそれぞれ、能力がどうあれ、すべて平等に尊重されるべきだとするべきなのだ。
 べきだとべきだ。そういうこんがらがった要請から考え出されたのが、西洋の人権という考えだとわたしは思う。


 日本には、群れを成す個人の尊重に関して、神から与えられた人権という共同幻想より、もっと洗練された共同幻想があった。
 日本ではまだまだ人権および人権思想が理解されておらず、当然、ゆきわたってもいないと嘆く声がある。嘆く気持ちの奥になにがあるのかを考えるべきだとわたしは思う。
 群れを成す個人の尊重が必要なのは西洋でも日本でも、変わらない。しかし、それをどのような形で行うかは風土と歴史によって異なってくる。

 日本人の場合、どんなことで、どんなとき、自分が自分の生まれや能力などを離れて人間として尊重されていると感じるのか、それを考え直してみる必要があると思う。
 
 人権という共同幻想のよりどころは、一神教のGodだ。ところが一神教の西洋では、すでにGodはいない。人権という幻想は、今ではなんのささえもなく、ただ内部から膨張してゆく風船のような幻想に変質している。
 「神がいなければすべてが許される」西洋社会は、神がいなければすべての観念が実体を失う文化でもある。
 実際、西洋の文化は、巨神兵のように半分腐ったまま動き回っている状態だ。

 そのような危うくはかない文化を日本人がありがたがる必要は無い。
 西洋から輸入され、アメリカからおしつけられたこの幻想、人権は、早晩、膨れ上がり過ぎて破裂するからだ。

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