半猫人の詩(うた)
昭和時代を若者として生きた人たちのnoteの記事を読むと、昭和のタテ社会を知らない間に受け入れて生きてゐたといふ感想の人が多いやうな気がします。
どうしてそんな気がするかといふと、自分とは違ふなと思ふからです。
わたしはとにかく、今でいふモラハラ、パワハラ、セクハラがいやでいやでたまらなかった。
自動車教習所の教官とは殴り合ひになって、おかげで無免許。
十代から二十代前半くらゐまで、わたしはオカマ風がなめられておっさんに平手打ちされたり頭を(子供を叱るときの親みたいに)叩かれたりすることがよくあった。
教習所の教官にも頭をポンポンと叩かれたので、喧嘩になった。
まあ、免許が取れなかったのは、今になってみると、老人の暴走運転ができないから、よかったけど。
今は、優しく、褒めて教える教習所があるみたい。
定職にもつけなかった。
どこに行っても、腹が立って飛び出すから。
アルバイト、非常勤なんとかばかりで、老人になってしまった。
肩書がほしいよ。
昭和の特徴として、教へる人が暴言や暴力を使ってもよかったこと。
「アホか、そんなこともでけへんのか!」
「もう、あかん。お前なんか、やめろ、出ていけ」
などと言って、叩いたり蹴ったりしてもよかった。
といふのも、さうやってシゴキ(死語?)に耐へたら、
「よくやったな」
とボソッと鬼の先生、鬼のコーチ、鬼の先輩などがつぶやく。
え?と思ってそっちを見ると、横顔の目に、確かに、涙が!
その視線に気づいた鬼の先生、鬼のコーチ、鬼の先輩は、拳で目のあたりをぐいっとぬぐって、
「何をぼやぼやしてんだ。次の課題に行くぞ!」
と怒鳴る。
「はいっ」
と返事をする自分の目にも涙が溢れて、ぬぐってもぬぐっても流れ出す。
俺は、この鬼の先生、鬼のコーチ、鬼の先輩に、一生ついていく!
・・・なんてのが昭和。
わたしは、臭すぎて吐きそうでしたね。
わたしは、怒鳴られたりすると、緊張して、もうポカの連続になって、ポカりとされる。だから、ポカり返して退職となってしまってゐた。
先輩って言葉すらいやで、口にするとけがれそうで。
先生とかも大嫌ひで、小学校から、今で言ふ不登校ぎみで、中学は出席日数がギリギリ。高校では、一年生の五月の連休後、つひに完全不登校。
昭和のゆたぼんですわ。←ちょっとちゃうね。
それでも、わたしは、若い頃から、サヨクとか反体制派とか反逆児とかみたいな人たちがキライでした。
結局、みんな群れてる。
それがいやでした。
なんでかうなったのか?
つらつら考へると、乳母が猫だったからだと思ひます。
或る猫目の女性(これが、のちの鉦太郎の妻である)と出会って付き合ひだしてしばらくして、わたしの猫基地外がバレた頃、
「あなた、心を病んでるよね。ビョーキだわ。半猫人」
と言はれた。キレッキレの東京弁だとかっこいいな。
「人間は犬なんだから、猫ぢゃ生きていけないわよ」
わたしは、犬町に迷ひ込んだ猫だったらしい。
萩原朔太郎先生、猫町はどこ?
犬だらけ。それで、昭和の真っただ中では、タテ社会や男尊女卑や働き中毒などがいやでたまらなかった。
そして、今、昭和の価値感がバッシングされ出すと、
タテ社会や男尊女卑や働き中毒とされたものの裏側も見るべきだといふ記事をやたらと書いてゐる。
犬たちが一斉に肯定しだしたものも、一斉に否定しだしたものも、どっちにしても、咆哮する犬たちの口臭と涎にまみれてゐる。
わたしには耐へられない。
ものごとには裏と表がある。
日本の文化から生じる現象、たとへば、タテ社会や男尊女卑や働き中毒などにも、表裏がある。
裏が見えてゐたら、その表が隠れて見えないといふことだ。逆もしかり。
今の日本は、アメリカやヨーロッパからの指示に従って、文明開化しようと頑張ってゐる。
欧米人には、日本の文化の表裏は見えない。
「表」として見えるものは、オー、スバラシイデスねー!と褒めてくれる。
「裏」側が目にはいると、「一体いつまでそんなことをしてゐるんだ、この島国の黄色い土人どもめ」と批判してくる。
ジャニーズ問題とかビッグモーターとか、男女機会均等とか、ワークライフバランスとか、LGBTとか、それらは、日本の経済力を、欧米が利用するのに十分な程度に調節するために使はれてゐると思ふ。←もろ陰謀論です(^^)
そして、それとは別に、欧米の謀略や情報戦であろうとなかろうと、わたしは、日本の文化を防衛するために、ものごとの裏をたたく犬たちには、爪を出す。
欧米人に承認された「表」を利用する保守派にも、やはり、爪を出す。