大調和の神示とトンネル効果

 谷口雅春氏(昭和のシン宗教『生長の家』の開祖)の大調和の神示を↓の記事に掲載した。

 『大調和の神示』とは、生きていることは有難い(奇跡のようだ)、それを知ったら感謝しないではいられないだろうという話だった。

 「おかげさまで」という言葉が自然に出ていた頃の日本人には、自分たちの生活感覚を言語化したものとしてすんなり受けいれられたのだろうと思う。
 
 これが宗教の教義になったのは、次のような経緯がある。
 谷口雅春氏は会社勤めのかたわら、寝る時間を削って執筆に勤しんでいた。もともとは作家志望で文才のある谷口氏は、自分の人生哲学を書き綴って世に問おうとしていた。いくらかまとまると、小冊子にして出した。

 すると、それを読んで「結核が治った」という人が現れた。
 読んだだけで、気がついたら、治っていたというのである。
 「病気は無い。心が創っているだけだ。
 心に健康を思えば病は本来の無に帰す。」
などといった文章を読んでいたら、レントゲンに影が映らなくなった。もちろん、まったくの健康体になっていた。
 そんな話である。

 そういう体験をして谷口氏に感謝するために訪れる人が、一人や二人ではないということで騒ぎになった。今ならがんが治ったという事件に匹敵する。
 当初、谷口雅春氏は「治りました」という本人の話を聞いても、「ほんとうですか?」と疑わしげだったそうだ。

 その後、谷口氏の文章を読んだだけで病気が治り、さらに就職できて(当時はとんでもない不景気で職の無い人が都市部には溢れていた)、良縁に恵まれ、争いの絶えなかった家族が互いに感謝し合うようになったという話が続々と報告された。

 「奇跡」が起きた後の、谷口雅春氏の言葉を引用して置く。

それから、あなたは「人間の心」が病気を治すのではない「神のみが治すのだ」と指摘せられましたけれども、「神のみが治すのだ」といふことも、本当は譬喩的な表現であつて本当ではないのであります。

あなたはクリスチヤン・サイエンスの信者らしいですが、エデイ夫人は「神は病気をつくらないから病気は無い」と言つたのであります。その「無い病気」を神がだうして治すことができましようか。「病気は無い」のですから「治すこともない」のであります。

これは「般若心経」の「老死なし。老死のなくなることもない」(無老死、無老死尽と言つたところとー致します。これを、「神が病気を治す」と説くのは方便であり、譬喩的な表現なのであります。

 わたしは、ここまでは事実だと思っている。
 谷口雅春氏の文章を読んで病気が奇跡的に治った人がいた。人生が好転した人がいた。そして、たぶん、そういう奇跡を体験した人が、何人もいたのだろうと思う。

 こういうことは起きる。つまり、奇跡は起きる。
 ちょっと強引だが、これは科学的にもそうだと言える。その話を書きたい。

 スピ系に大人気の量子論には、トンネル効果と言うものがある。比喩的に言うと、汽車の進む先に、乗り越えていくしかない山があるのに、まるでいきなりトンネルができたかのように、汽車が山の向こうに現れる。そういう現象だ。

 観察的に実証されるのは、電子が膜を通り抜けるというものらしい。つまりミクロの世界のことだ。つまり、10cmのマイナス10数乗とかいう、小さいという言葉では追いつかないくらい、極小の世界の話だ。
 
そんな世界で何が起きていてもわたしの知ったことではないような気もする。
 けれども、量子論がスピ系に援用されるのは、ミクロの世界こそがわたしたちの今こうして暮らしているマクロの世界の基盤である点だ。
 見えないけれど、不思議としか思えないことは日常的に、今、目の前で(見えないけれど)起きている、ということになる。

 ミクロの世界とマクロの世界は完全に断絶しており、その断絶をなんらかの手立てで、再びつないでいるから、マクロの物理現象もミクロの量子論の理論も両立するのだというような科学的な説明はまだ無い。
 いまのところ、どうも、断絶なく、繋がっているようでしかないということらしい。重なっているという感じなのかもしれない。文系頭には想像の埒外だ。

 ということで、トンネル効果も、マクロの世界で起きないとは限らない、言えてしまう。
 壁に野球のボールを投げていたら、すっと通り抜けて、壁の向こうで転がっていた。
 「そんなことは絶対に起きない」とむきになって否定すると、かえって非科学的なのだそうだ。

 こう聞くと、スピ系の人はうれしくなる。わたしも実は隠れスピ系なので、とてもうれしくてワクワクしてくる。

 奇跡は起きる。

 或る人が、どんなひどい目に遭っても、何が起きても、ひたすら感謝した。
「ありがとう」「ありがとう」「ありがと「ありがとう」「ありがとう」「ありがとう」「ありがとう」「ありがとう」「ありがとう」「ありがとう」「ありがとう」「ありがとう」「ありがとう」「ありがとう」「ありがとう」「ありがとう」「ありがとう」「ありがとう」「ありがとう」「ありがとう」「ありがとう」う」「「ありがとう」「ありがとう」「ありがとう」ありがとう」「ありがとう」「ありがとう」「ありがとう」「ありがとう」「ありがとう」「あ「ありがとう」「ありがとう」「ありがとう」「ありがとう」「ありがとう」「ありがとう」「ありがとう」「ありがとう」「ありがとう」「ありがとう」「ありがとう」「ありがとう」りがとう」「ありがとう」「ありがとう」
と感謝していると、その人の難病が忽然と消えた。

 それは事実だと思う。

 だが、奇跡が起きた後、例えば、「ありがとう」を100回とか10,000回とか唱えたから奇跡が起きたと定式化して、或る目的のために「ありがとう」を唱えたら達成されるとして他人に教えると、たいていは、というか、きっと、うまくいかない。

 いわゆる代替医療は、奇跡がもとになっていることを強引に療法にしてしまっているような気がする。だから、科学的に検証したらエビデンス無し、それをわかって人からお金を取って商売している人は詐欺師ということになる。

 こうなると、最初の奇跡にもケチがつく。
 そんなものは無かったという人も出て来るだろう。
 奇跡じたいが非科学、妄想、ただのお話、だということになる。


漫画『パナップルARMY』(工藤かずや原作・浦沢直樹画)の「聖者現る」という話に、次のような会話がある。

「あとはそれを大量に生産する畑があればいい。そためにも水源を確保しなければ・・・」
「五十年以上も前に涸れてしまった水源をですか?奇蹟を待つしかない・・・」
「シニョール豪士、奇蹟はこういう場合には起こらんものです。奇蹟とは、常に結果に対してではなく、信仰を深めるきっかけとして起こるものなのです」

 奇跡は、祈りの結果として起きるものではない。
 信仰の始まりして現れる。

 新興宗教を信じている人は、むしろ信じていないように、わたしには、見える。
 自己の精神の奥に秘め置かれず、他者に向かって言葉を尽くして語られる奇跡とは、本人が信じていないものであるように、聞こえる。

 わたしなら、もし、信じるしかないような奇跡が自分に起きたとしたら、それを誰にも語らないだろうし、どこか仲間と群れを成して、同じ動作と定型句を用いて祈る場所を求めたりもしないと思う。

 いつもの生活をつづけながら、ときたま、自室で、ひとりのとき、何かに感謝するだろう。


 


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