美しい星
わたしが三島由紀夫氏の作品を最初に読んだのは十代だった。
正確には、十五歳から二十歳まで。
三十を過ぎた頃に、読み返してみようと思って全集を揃えたら、十代に読んだのは、氏の作品のうち、量的にいうとだいたい半分くらいだった。自分ではほとんど読みつくしたように感じていたが、三島氏が自分が思っていたより倍くらい多産な作家であることに驚いた。
全集を古本で揃えたものの、一年もたたないうちに、或る理由から文学からは一切離れることにしたので、ほとんど読まないまま、また古本屋に売ってしまった。
三島由紀夫氏の作品はもう二度と読むことはないと思いながら年をとったのだが、ひょんなことから、一昨年から、読みだした。
最初は『英霊の声』だった。
再読すると、十代のときに読んでわかっていたつもりだったことが、えらく間違っていたことに気づいてあわてた。
わたしは、こっそり言うと、三島由紀夫氏の文学についてはかなりの理解者だと思い込んでいたので、ちょっといやな感じがして、次に、とても好きだった作品、『三熊野詣』を読んでみた。すると、これも、ほとんど初めて読むくらいあれやこれやと発見があった。十代の頃、無意識ながら疑問に感じつつ読み進んでいたことで、やっとわかったと思うことがたくさんあった。
もしかしたら、壮大な読み違いをしているかもしれないと思っておそろしくなってきた。
それで、かつて読んだ作品を全部読み返すことにした。
今、その最中である。
ちょうど『美しい星』を読んだところだ。
かつて読んで、とても好きになった、自分の宝物のような気持を持った作品だった。読み返してみて、やはりものすごく好きな作品であることを確認したが、やはりまた、字面だけをすべっていて表現の中身が読めていないところが多かった。
今こうして、十代のときに耽溺した三島由紀夫氏の作品を読み返すことで、わたしが、その後の人生で、岐路にいきあたるたびに、どう選択を間違えて、それはどういう理由からだったかが、わかってきている。
わたしは、人生の道が二つ三つに分かれたところにくるたびに、もっとも進んではならない方をわざわざ選び、どんどんと道も自分も見失い、気がつくと、もう引き返して「あそこは、あっちに行けばよかった」と思ってもどうすることもできないところまで来てしまった。
『美しい星』の一節
曉子は公会堂事務所へ行ったが、窓口は閉めていて、中の机はみんな空っぽで、たった一人喪章を巻いた初老の事務員が帰り支度をしている。曉子が窓口の硝子を叩く。
「今日はだめ」
と遠くから手を振った。そのとき窓口に浮かんだ曉子の仄白い美しい顔に気づいたらしく、近づいて来て鍵を廻して、窓だけあけた。框に吹き込んだ埃のために、あけられる小窓はきしんだ。
「会場の予約ですか。今日は生憎だめなんです。明日又来て下さい。何しろ区長の区民葬がすんだばっかりなんだから」
「何とかおねがいできないでしょうか」
「明日いらっしゃい。予約はそんなに混んでないから大丈夫ですよ」
「じゃあ・・・会場だけでも見せていただけないでしょうか」
事務員は一寸考えていたが、その初老の受け口の汚れた唇から、考えている息がひどく臭った。
これを読んでいた十代の頃は、まさか、自分が初老になるまで生きるとは思っていなかった。それまでに死ぬとかではなく、自分の人生は、爪先立って先を望んで見ても、せいぜいがニ三年くらい先の予想しかつかなかった。
それが十代というものだと思う。
仄白い美しい顔に気づいたらしく、近づいて来て
その初老の受け口の汚れた唇から、考えている息がひどく臭った
この二つのパッセージは、そのまま、覚えていた。
女と見れば、若い女と見れば、そして、それが美しいなら、窓口業務に追いやられた無能で不愛想な初老の男も、いそいそと近づいてくる。
それが人間の男というものだとわたしは思った。
そして、それは、臭い息をまきちらす、薄汚い生き物である。
そんな年齢になってわたしがまだ生きていると知ったら、十代のわたしは怒り狂ってわたしを殺しに来るだろう。
だから、わたしは、この頃、毎日、彼に知られまいとして必死なのだ。