恐怖と同調圧力

 勇敢でありたいものだが、まったく恐怖を感じないとしたら、脳が壊れているのだろう。

 命知らずの冒険家が、人前でスピーチをすることを死ぬより怖ったという話を初めて聞いてからずっと気になっている。
 死ぬのが怖くない人がどうしてそんなつまらないことに?と不思議だった。

 脳は恐怖を感じる。これは、動物が脳を持つ理由の一つだろう。
 おそらく、恐怖を感じるべきものに対して恐怖を感じるように出来ているはずだ。
 命知らずの冒険家の場合、命が危険にさらされるような状況に恐怖を感じない(感じても身体が動く)のは、

①脳の機能のなにかが狂っているのか
②脳が或る種の方略を用いているのか

のどちらかだろう。


 人前でのスピーチを強いられると冷や汗を流し始め、絞め殺されそうな声を発したと思ったら気絶したというような冒険家は、脳が、恐怖の対象を「人前でのスピーチ」に限定していたのかもしれない。

 脳には恐怖の対象が初期設定値となっているようだ。
 高所、大きな音、ヘビやクモ、それから人前で話をすること。

 なんで人前で話すことが本能的な恐怖なのか、不思議だったが、調べて見ると、人間は仲間外れにされると生きていけない動物だからだそうだ。
 仲間の不興を買うと群れからはじかれる。それは、死を意味した。

 犬に対する究極の罰は「無視すること」だと聞いたことがある。
 水もご飯もあげるのだが、そこにその犬がいるということを認めない。
 犬が吠えようと暴れようと、なんにも見えないし聞こえないというていで、家族全員が、徹底的に無視する。
 そうすると、どんなに元気だった猛犬も、ものを食べなくなり、だんだんと弱っていくそうだ。

 人間は犬と同じで、ボスになる個体(α)以外は、
従順に命令に従って認めてもらう
他人が喜ぶことをする
他人がいやがることはしないように気をつけることで、
自分の安全と安心を確保している。

 歳をとってきて、人の気に入るようなことがうまくできなくなってくると、文句をつける、憎まれ口を言うなどというひんまがった方法になるのだろうが、そういう老い耄れの中にも、存在を認めてほしいという根本欲求は生きている。

 人間は生きるためには群れの中にいなければならない。群れから放り出されると、死ぬ。
 ここまで読んできて、私は違うよという人も多いだろう。
 確かに、今は、独りでも生きていける気がする。他人に気に入られようとしている限り幸せにはなれないと(暇を持て余して啓蒙本(自分で考えない人のための本)ばかり書いている)精神科医も言っている。
 実際、そうなのかもしれない。
 人がどう思うかを考える暇があったら、自分の好きなように生きたら、いいのかもしれない。

 けれども、何万年からの脳の初期設定値は、まだ、変わっていないようだ。学校で誰も口をきいてくれなくなったが、毎日元気に登校しているという学生はあまりいないようだ。大人でも人から悪く言われると、つまり、人に嫌われると死にたくなる人が少なくないようだ。

 「人にどう思われようとまったく気にならない」と言って職場規定をいろいろと無視している人が、あたしが挨拶したのに誰それが無視したとよく怒る。挨拶は大事だなとわたしも思う。
 笑顔を向けたのに、無表情を返されると、脳は自分が孤立しているかもしれないと怯えるらしい。
 他人の表情を絶えずチェックするのも初期設定値だから、自分軸で生きることを邪魔している。どうしても他人の反応が気になるように脳ができている。

 脳の初期設定値を変えない限り、自分らしく生きるというのは夢でしかないのかもしれない。
 わたしの意見を言うと、人に向かって「自分らしく生きよう」と言っている人の話は聞かなくていいと思う。もし、自分らしく生きているなら、そういう人は他人にそんな呼びかけをしないからだ。自分らしく生きたいなら、そういう人の話を聞いていると時間の無駄になる。

 さらに、わたしの考えとしては、「自分らしく生きようとしても人間にはできることではない」と思う。自分らしく生きるには、宇宙人になるしかないだろう。
 宇宙人になれない人は、人間として「他人を気にして他人のために生きる」しかない、とわたしは思う。

 ついでに同調圧力の話も書いておきたい。
 日本人は同調圧力に弱い、という言葉を聞くと、同調圧力を日本人だけのことだと思える感覚が不思議だ。西洋人が個人主義なのは、「みんな」が個人主義だからだ。個人主義でないと仲間外れにされる。

 西洋に留学した人は、こういう経験をしたことがないだろうか?
 「みんな」で輪になって話し合う授業ではひとりひとりの意見をくどくどと聞かれることがよくある。
 「わたしも○○と同じ意見です」とか「とくに意見はありません」とか言っていると、めちゃくちゃに叩かれた。
 「みんな」が、「私には意見がない」ということを許さないのだ。わたしは、これは全体主義だと感じた。

 今にして思えば、「個人であらねばならない」というのが西洋人の同調圧力だったんだなと思う。

 

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