母親となってくれた女性と母親になってくれる女性に
母親である女性で、今は子供が成人してゐるくらゐの世代の人たちは、よくぞ、産後鬱や育児ノイローゼを生き延びたと感心します。
ほとんどの人が核家族化した家庭だったと思ひます。
育児はワンオペ。
それを疑問に思ふ人は、ほとんどゐなかったと思ひます。
むしろ、舅姑、伯父叔父伯母叔母、親戚、近所の人たちといった他人の目を遮断する「鍵の掛かる家」に夫とだけ住むことで、戦後の日本の女性は「個人」となれた、解放されたとすら思はれてゐたようです。
これまで何度も触れてきましたが、ヒト科ヒトの育児は、母親と子供の絆を中心にしたグループ保育だった。
ワンオペは、ヒトの赤ん坊のやうに手のかかりまくる動物では、無理。
その無理を無理やりおしのけて自らの心身を削りながら育ててくれた女性たちのおかげで、今、成人となった子供たちが元気に暮らしてゐます。
わたしはイクメンとかには反対なのですが、育児が母親一人で出来るはずがなく、その出来るはずのないことを超人的に達成したのが、今、成人を子供に持つ女性たちだと思ひます。
敬礼!
そして、今後のこと。
自分の子供を虐待してしまった母親の話がよく聞かれます。さういふ「児相」案件は、悲しいことに、どんどん増えてきてゐるらしいです。
よかれあしかれ、日本で暮らす人たちはどんどん繊細になってきてゐます。明治時代までは、まずは感染症にさらされて免疫的に弱い人は淘汰された。
近所の子供や学校の同級生や上級生からのいぢめを生き延びたり、いぢめをして過ごしたり、そんな子供たちの修羅場も、まあ、昭和までは、普通のことだった。会社職場のパワハラは、森に行けば、鳥が鳴いてるくらゐ、自然な風景だった。
平成あたりから、じわじわと、社会の仕組みや生活の習慣、いろんなものごとに監査の目が入り、どんどん改良されてきて、令和になって一挙に加速してゐます。
同時に、わたしたち日本人は、年寄りも含めて、ストレスに弱くなってきてゐます。すぐ切れる、へこむ、心が折れる、死ぬ。
今、乳幼児や成人前の子供を育ててゐる母親、これから母親となる女性、みんな、「たくましくなくなって」ゐると思ひます。
明治生れのおばあさんなどから見たら「ひ弱でもろくて、見てられない」といふ感じかも。
このあたりは、日本の社会に生きる老若男女すべてに当てはまることかもしれません。
製薬会社と精神科医(そのおこぼれにあずかるパシリの心理カウンセラーたち)の巧みな共謀も大きな原因であるとはいへ、それだけが要因ではなく、日本社会では、心を病む人の数は、各世代で伸びてきてゐます。
わたしたちは、柔(やは)になってきてゐる。身体も神経も。
それを前提に、母親である女性、母親となってくれる女性たちを、社会全体で、敬意をもって、支へていかなければならないと思ひます。
とりあへず自分は何ができるかと考へると、途方に暮れるのですが、↓の記事を張っておきます。
トランス女性を差別したいとかいふ話ではないのです。
子供を持つ母親、母親となってくれる女性たちは、(わたしみたいな)ヘンタイ男に対する心配をしなくてはなりません。
そんな心配は減らしたい。
少なくとも、増やしたくない。
トランス女性の苦悩を放置しろと言ってゐるわけではなく、問題は別々に存在してゐます。
といふことが、↓の記事からわかってくると思ひます。
以下、余談です。
精神科の診断って聴診器を頭に当てたりレントゲンを撮ったりしません。
問診です。
しかも、診断マニュアルに沿った問診。
構造化面接、なんちゃって。
かつては、精神科医の経験知に基づく恣意的な尋問だったのを、エビデンス・ベイストの科学的診断に改良したんですって、奥さん。
これって詐病可能なんぢゃないかと思って、試してみたら、パーソナリティ障害の診断書、これまでに四つ、取れましたよ。
趣味で、これからも、診断書のコレクションは続けるつもりです。
全部、ほんまに、その障害を持ってるのかもしれませんけど。
だったら、真正の診断としては、解離性(多重人格)障害やね。