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生穂今昔雑記①

生穂のダンジリ祭(概略)

生穂の賀茂神社(四社明神)で行われる春祭り(ダンジリ祭)について、
先ずは大まかに記していく。

賀茂神社の氏子は、生穂と佐野になる(仮屋も氏子だった話も聞く)。したがって生穂と佐野からダンジリ(注1)が奉納されていた。
『津名町史(1988)』によれば(五十音順)、
[生穂町]生野組(生穂近江ヶ原と佐野畦が内の合同)・大谷本村組・大谷南組・𡈽器屋(東)組・中組・覗組・野田尾組・濱組・札場組・摩耶組
[佐野町]7台
計17台が最多台数だったようである。
旧津名町では、志筑神社の20台が最多だった。これは淡路島内でも1・2を争う台数であった。

令和二年現在は、
[生穂]大谷南組・𡈽器屋組・中組・野田尾組・濱組・札場組となっている。大谷南組は台風災害で倒壊し、一度は手放したが近年新たに子供ダンジリを新調した。
佐野から賀茂神社に奉納されるダンジリはない。数年前の佐野八幡神社の秋季例大祭には小田前組のダンジリ奉納があった。


絵馬

生穂での古い記録は、札場組若中が奉納した賀茂神社絵馬殿の「明治廿年十月 本社砂持實況」絵馬がある(明治20年10月 本社すなもち実況)。

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これは明治の建て替えでニ日ニ夜行われた砂持の様子を描いたものである。
かつての賀茂神社は四社明神と称され、2度の火災による焼失、享保十三年(1729)十二月二十七日の3度目の火災以降は打ち捨てられていた。
そこで明治20年に新築しようという運びとなった。落成は明治22 年とされている(『兵庫県神社誌』・賀茂神社HP など)。
明治22 年(1889)4 月1 日、生穂村(中之内・生穂浦が明治10年に合併)に野田尾が編入し、新生穂村となっている。
野田尾が加わることが決まった段階で社殿を新築しようという話が上がった可能性がある。

この絵馬には、江戸期に”邌物”(ねりもの)と言われていたダンジリ台のようなものが描かれている。社から順に組名を記す。
覗、札場、佐野原、段、小田前、大谷南、中組、不明、西濱、北濱、濱、中濱、神原、大谷本村、小井、高寺、𡈽器屋、長澤、雨乞、興隆寺、近江ヶ原、志筑
計22組20台である。
平型屋根の邌物には、各組の産物(大根・鯛など)を模した物が載っているのが多い。乗り子は太鼓・笛・鉦鼓を鳴らしているように見え、練り子は提灯を手に邌物を曳いている。

砂持4

ほとんどが曳き型であり舟型も数組見られるが、布団ダンジリ(3段)も2台あるのが確認できる。

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『砂持』について掘り下げようと思うが、長くなるので次回とする。


注1:地元では「太鼓」と呼ぶが、和太鼓等と紛らわしいため本稿では「ダンジリ」とする。

ヘッダー画像:引用元『摂津名所圖會』
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