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大川真澄

弘化2年(1846)5月-昭和5年(1930)
生穂高部 教育者・歌人

父・大川渡は国学者であり歌人であった。真澄も賀茂神社の神官が本職であったが国学を修め、和歌特に長唄をよくし、能筆家としても知られるようになった。
師は、伊藤博文から頼まれ最高裁判事を務め、庚申事件も判決した旧東浦町出身の国学者 鈴木重胤。

大川家は代々寺子屋を開いており、真澄は中等程度以上の私塾「養徳学舎」を開き、生穂の子弟を教養した。その内容は藩学に匹敵する高度なものであった(養徳学舎は賀茂神社境内の一角に建てられていた。現社務所の前方)。
学制が公布され生穂小学校の教師となり、明治15年(1882)新校舎落成式の時は校長を務めている。
明治20年(1887)42歳で校長を辞し以後は天王寺中学、桃山中学、東京青山学院、新潟第一高女、天理中学、神宮皇學館の各校を歴任し、半生を中等教育に捧げた。特に国語・漢文・歴史を教えた。


神学では、かつて神宮皇學館の講師時代に原白頭宰相の祝詞を代作し、その名文を認められた事もある。
他に、長歌の詠人また能筆家としても全国的に知られている。

昭和4年(1929)には、祝詞の集大成として『諄辞集(じゅんじしゅう)』を出版した。『諄辞集』は今も祝詞の模範集として神職にあたる者の教範になっている。

明治20年に賀茂神社本社を再築した際には、自ら社殿意匠・配置を設計し、現賀茂神社は民幣社殿としては珍しい配置となっている(賀茂神社宮司談)。

「謹上 齋主太神宮○(解読不能)」という文書には、「松杉の梢ほのかに霞むめ梨 岩井の森の曙の空 貞光」慶應二歳丙寅九月廿六日鎮坐 神主 大川長門正 とあり、備考として「大川長門正ハ中ノ内賀茂神社神職大川真澄氏ナリ」とある。「長門正」が別號なのかは不明。
これは「鈴木重胤の死を悼んで書いたものだろう」との端折書きも見受けられた。

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