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今岡義之

元治元年(1864)4月-昭和22年(1947)段 実業家・地方政治家


東京法律学校(中央大学法学部)卒業。
明治23年に初代岡田長吉村長の後任となり、26歳で生穂村村長となる。
続いて33歳で県会議員となる。村長は34年間在職。

道路村長とも呼ばれ、県道室津津名線・津名北淡線・町道堀越線・木戸線・虚空蔵線などを整備した。

淡路改進党の重要人物となり、党勢拡大のため大いに活躍した。

他に、生穂信用組合創設。

村長辞任後の大正の末、全淡自動車会社(路線バス)創設の機運が高まり、村民に推されて創立委員となった。
会社設立後、社長に就任し20年間交通運輸事業に専念。
淡路鉄道会社と合併して淡路交通株式会社とし、淡路島の自動車交通事業の発展に生涯をかけて取り組み、淡路の「交通文明の父」と呼ばれた。

全淡自動車の常務として、緻密な経済に辣腕を揮い優良な成績を続ける。特に営業区域の拡張・賃金の遞減(ていげん)・車体の改良等を策し業界必至の競争に備えた。

また、地域産業の発展を図り工場誘致に努め、マッチ製造工場(三八商会)を設立した。

大正13年(1924)紺綬褒章受賞。

ちなみに、家祖伝来の人相・家相判断の知識を持っており特技としていた。それらも含め、幅広い学識を持ち口角沫を飛ばすの論客であったが、一種の皮肉屋であったとも言われている。

【追記】
江戸時代の開国は、ペリーが浦賀に来航した嘉永年間(1853)より始まる。と教科書などでは記されているが、それより70年も前の安永年間に既に露艦が阿波日和佐に来航していたことは記されていない。

徳島藩は海防と攘夷の要所となり、朝廷・幕府から海防を厳にせよとの命が下った。この命により稲田植誠は岩屋13門・由良64門の砲台を築城し、その守備として3000名超えの大部隊 農兵隊の訓練を始めた。
その隊長となったのが、塩田・田村平一郎、鮎原・高津例太郎、生穂・今岡寛平、八木・武田万太夫などであった。

今岡義之は、この今岡寛平の流れを汲むのではないかと小生は考えている。

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