岩木喜市
明治14年(1881)7月26日生-1971没
生穂摩耶出身 摩耶業
正岡子規の弟子である高浜虚子の一番弟子。俳人筆名は「岩木躑躅」。
摩耶業の創始者 岩木喜平(阿波藩主 蜂須賀家の筆頭家老 稲田氏より苗字帯刀免許)の孫・岩木猪之吉の長男である。
岩木家は名家で、代々接骨業を営んでいた。職業に「摩耶業」と書いたが、「まや」が接骨医の代名詞になるほど、四国・紀州・播州にまでその名を知られていたという。
喜市が7歳のときに、父は故あって病母を故郷に残し神戸(阪本村)に移住する。この時の母との悲しい別れが終生故郷を愛する原因ともなった。
神戸一中を出て、明治36年医学修得のため上京して済生学舎に入る。その時に新聞で親しんでいた高浜虚子のもとを訪れ、入門を許される。高浜虚子からは「躑躅」の俳号を受けた。これは虚子が人に与えた最初の俳号であった。躑躅はこれを誇りとして子供の命名を全て虚子に頼んだほどである。
雑誌『ホトトギス』に登場したのは大正6年6月号。
その頃には、虚子四天王(西山泊雲・野村泊月・田中王城)の一人として、俳人「岩木躑躅」の名は俳界に広まっていた。
明治39年、東京から神戸へ移り、家業の接骨医を継ぐこととなるが、それと同時に「摩耶句会」「想樹会」など、数句会の指導者となる。
想樹会で「虚子選躑躅句集」を出版。
昭和10年には虚子の息子 年尾と「摩耶」を発行。
昭和19年、神戸空襲により家屋が全焼してしまったのを機に、故郷生穂への移転を決断する。
地元の同士・真農・更衣・穂水・堅吉・花蕾・梅村などにより「淡路つつじ会」結成。
昭和26年「つつじ句会(句会)」を発足。
同年、兵庫県より文化功労者として表彰される。
また、故郷 生穂第一小学校(現 津名東小学校)校歌の作詞者でもある。島内には5つの句碑がある。
余談であるが、青年時代には好んで儒道(儒学)を研鑚しており、仕事の傍らに朱子学を好愛したという閲歴もある。
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