解剖!”好き”とは

今回はプライベートっぽい話題にしてみました。

先日、ずっと好きだった人に

好きだったという告白

それももうやめますという告白(?)と

意を決してしてきました。

好きだった人にずっと恋人の影を感じていて、でもそうとは言わないことにも複雑な想いが渦巻くようになってしまって。『あぁもし今結婚式の招待をされたらどうしよう』とされてもいないことで悩むようになってしまったのですよね…。

きっと大泣きだろうし、傍から見たら感動の涙に見えると思う、でもその涙は本当は自分のためなんだろうなーだからって欠席に〇して凝った返信をするような気持ちにもとてもなれないだろうし。

そういう不確かなシチュエーションの妄想が深まってくると、自分のことしか考えていない独りよがりな欲求にまみれてしまっていることを実感させられます。

『伝えよう』 告白

だからって急に好きだったとか言い出すのもまた自分勝手なのかなとも思うのですが、友人として仲良くなりすぎてしまったのでこれ以上偽れないし嘘を吐き続けるのは不誠実だなと思い、意を決して話をしてきました。

結果としては、これからも友人の一人でいようということに。

好きって、どうなりたいの

同性を好きになることの好きっていう感情、感覚。これってみんな一人ひとり異なるものだと思うのです。それは大多数の異性愛でも同じことではないでしょうか。だからこの好きの解剖はあくまで私という一事例として読んでくださいね。

人を好きと思う。それを伝えてどうなりたいか。20代前半ではよく分からなかったのですが最近実感があります。伝えるからには距離を縮めたい、多くのものを共有したい、それで信頼関係を高めたい、それが行き着くのは自分が安心して帰る場所を作りたいという願望なんじゃないかと思います。家庭を持ちたい、家族を持ちたい。異性愛であればその次のステップとして子どもがほしいとなるのだと思いますが。

たとえ同性夫婦だったとしても、そういう安心できる環境を作って子育てをしたいという感情になることは本当に幸せである証になるんだなーと憧れる感覚が分かってきました。

自分が生まれ育った家庭ではなく、自分が選んだ人と新たな家庭を築くこと。自分の意思で生きること。それが人を好きになる根底にあるのかな。

友人との違い

だから友人と恋人の違いってけっこう大きいかもな、と改めて感じてちょっとダメージをくらっています…。でも好きっていうものの中身が一人ひとり違う以上、それが噛み合わなければどうしようもないのだよな…と自分で自分の理屈に丸め込まれていたりして。

もっと若いうちは、恋人になれなくても理解してくれる友人ができるのだって有難いこと…人としては一応認めてもらえたんだ、と自己肯定を他に委ねがちだったのでよかったのですが。もういい加減同世代の女性が結婚適齢期のリミットと格闘している時期なのでそんなのんびりしたことも言っていられなくなってきました。本当に孤独を感じます。苦笑

これから

この田舎にいて果たして何を心の依り代に生きたらいいのか…と少し気分が停滞気味です。この鬱屈した想いは個よりも社会に向けて発散するよりないのかな、と考えることもあります。何かできるかな、人の力になりたいな、と。

私が彼女を好きなのだと知ったら嫌われるだろうか、とか気持ち悪いと思われるだろうか、とか友人の皮をかぶった裏切り者だ私は、とかそういうことを考える時間が大幅に減ったのは精神衛生が向上した…これが独りよがりなカムアウトで得られた(と思い込みたい)良かったことです。自分のことを考える時間がとても増えました。

だからこそnoteの更新も出来るようになったと思います。

傷心の秋、春に備えて冬支度

川柳です。一句出来てしまいました。

最後まで読んでくれてどうもありがとう。

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