Assimilation vs. acculturation?! アメリカではわかりやすさが大事?!

初投稿から24時間も経たずに次のトピックを書きたくなってしまったので書きます!

今回はアメリカ留学中の日本語 (home language) の位置づけを、assimilation (同化) とacculturation (適応) の観点から考えていきます!

今回の僕の留学は、acculturation > assimilationを強く意識しています。

前回の留学は8年前のアメリカ語学留学だったのですが、その時は英語の上達が最大のテーマでしたので、アメリカの人たちの言動を真似て、アメリカ人に同化するくらいの気持ちで留学生活を過ごしていました。日本語は出来るだけ使わないようにしましたし、現地での日本人との関わりも最小限にして、日本人と話す時でも英語を使うことを意識しました。当時はとにかく英語のinputとoutputの絶対量を増やす必要がありましたし、それで良かったと思っています。

しかし、今回の留学は違います!

今回は、いかに日本人として、或いは、日本人のアイデンティティを持った地球市民・世界市民として、アメリカに適応できるかという観点を重視しています。自分の言動を説明出来ない状態でとりあえず飛び込むということは出来るだけしない様にしています。僕はこの考え方を、quantity (量) よりもquality (質) と表現します。

身近な取り組みを挙げるとすれば、挨拶の仕方、アイコンタクトの仕方、人との距離の取り方などでしょうか。

僕はアメリカに来たからと言ってとりあえずハグをするというアプローチは、今回の留学では出来るだけ取りません。まぁ、極端に頭を下げたりはしませんけど、まずは日本人的に挨拶をして (もちろん英語で)、日本ではこうやって挨拶をするんですといったことを説明します。人の目を見過ぎないことや、初対面の人と話す時の立ち位置や座る位置などに触れることもあります。それで、相手が異なる挨拶の仕方があることに理解を示してくれたら、あとはその場の雰囲気でハグする時もあればしない時もあります。

この過程を踏むことによって、相手に不快感や違和感を与えることもあるでしょう。さらに、その不快感や違和感というのは、日本で教育を受けた人は何かが起こる前に回避する様に教えられるものです。一方、アメリカでは、implicit (不明確) をexplicit (明確) にしてお互いの価値観を示すことが大切になってきます。自分の価値観を示すことは、この国では相手に小さな不快感や違和感を与えるのを回避することよりも重要なのです。

昨日の朝、自宅アパートで読書していたら、下の階から排水管工事の様なすごい音が聞こえてきてうるさかったということがありました。僕の予想は当たっていて、ちょっとしたトラブルの一歩手前になりました。どういうことかと言うと、僕が水道を使ったらその水が作業中のエリアに漏れたらしいのです。たぶん排水管のパイプを外したりしていたのでしょう。キッチンで食器を洗っていた時の水が、下の階の作業場へ全部流れていて、慌てたスタッフが僕の部屋へやって来て、「どうやら下の階で水が漏れているみたいなんだが、どう考えても上の階のあなたの部屋からだと思うんです。我々の作業に支障が出るから、今から4時間、一切水を使うのを控えてもらえませんか」というお願いをしてきたわけです。作業を委託された彼らも頑張っているので、僕は水の使用を控えて、大学の図書館へ移動しました。

図書館へ向かう道中、僕はassimilationとacculturationというのを考えていました。あの時怒るべきだったかなと。まぁ、僕は怒ってなかったんですけど、同化と適応の観点からこちらの考え方も理解してもらうために、しっかり主張をするのもありだったかなとか考えたんです。

日本だったら下の階であっても、事前に業者やアパートの管理人の方から連絡が入って、〇〇日の〇〇時から〇〇時まで業者の者が作業しますので、ご迷惑とご不便をおかけしますが、、、みたいなプロセスがあって、万が一その連絡が行き損ねたらそれなりの謝罪があるわけです。でも、こっちの文化は良くも悪くも個人主義で、けども、責任は個人が取らないんですよね。言葉の使い方も、"どうやらこう言うことが起こってるみたいなんだ"と、どこか自分たちとは関係ないところで何かが原因でこういうことが起こっててという、自分たちには全く責任が無いという言い方をします。

そういったことを自分が納得するまで考えて、自分なりになぜ彼らはあのタイミングでああいう言い方をしていたのかということを整理出来たので、僕の部屋の何かが壊れたりしたわけではありませんでしたし、今回は引きました。

個人が責任を取らないし責任を追及されることもないというのは、日本人には理解できないかもしれませんが、メリットもあります。みんな失敗を恐れずに、出来ないこと・苦手なことよりも、出来ること・得意なことにどんどん挑戦して、才能を伸ばしていきます。だから、アメリカでは天才的にある分野の学問にたけている人であっても、例えば絶対に約束の時間に遅れてくるとか、人の名前を覚えられないとか、大人になっても忘れ物を頻繁にするとか、服装がだらしないとかいう方がたくさんいます。逆に日本は、絶対的な才能が無くても、時間に正確で、忘れ物をせず、身だしなみが清潔な方はある程度仕事が出来るとなりますよね。しかもそれは言われなくてもやらなきゃいけなかったりする。アメリカの方は明確に言われていないことはやらないのです。その分、やるべきことは高いプロ意識でやるというわけです。

だから、アメリカではわかりやすさ、透明性、そのためのコミュニケーションが大事です。新しい価値観をどんどん示していけば、日本人としてアメリカに同化せずに適応出来ると考えています。

さて、留学中のhome languageの位置づけですが、僕はこの点に関する考えが、大学教員時代とは大きく異なります。そもそもEFL (外国語としての英語: 日常的に英語を使うことはほとんど無い) とESL (第2言語としての英語: 英語が日常的に使われている)というコンテストの違いが大きいのは間違いありません。日本では学校や特定の仕事以外で英語を使いませんが、アメリカでは英語が日常的に使われています。

語学留学後~教員時代の僕は日本にいましたので、英語は意識的に使わないと上達しないと考えていました。日本人が日本で英語を極めるには今でも出来るだけEnglish-only policyを貫くのが効果的だと思っていますが、今回の留学に来てからの違いは、カリキュラムを別々に考えるか、国語と一緒にバイリンガル教育として考えるかというところにあります。

つまり、アメリカでバイリンガル教育について研究する中で、home languageの重要性と、それを英語とセットで考えることの必要性を痛感したわけです。それらのことは、home languageの完成度と、その文化やアイデンティティ的な側面をリソースとして使うことで、英語学習を別々に捉えているアプローチよりも高い学習効果があるという様々な研究結果にも裏付けされています。

EFLとESLの違いで具体的なアプローチには差がありますが、home languageとtarget languageをバイリンガル教育として一緒に考えるというのがこれからのトレンドになっていくはずです!

それから、今回は触れませんでしたが、translanguagingという比較的新しい言語使用アプローチがあるので、いずれ書いていく予定です!

最後まで読んでいただいた方、ありがとうございました!!!

次回は、Critical Pedagogyという観点で、アメリカと日本のダイバーシティについて考えていきたいと思います!

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