カンボジアで出会った、贈り合い

noteでの最初の投稿で、書くという事、について書こうといったそばから、2回目の原稿のタイトルがコレ。
ただ、書くという事は温度感も大事かと思うので、出会ったそばから活字にしていこうとも、思っています。

私は、現在カンボジアのシェムリアップというところに住んでいる。知らない人の為にちょこっと解説しておくと、シェムリアップという土地は、さながら日本の関東で言うと鎌倉のような、関西で言うと奈良のような立ち位置。(よけいにわかりずらいか!?)世界遺産のアンコールワットを中心とした観光中心の市街地のまわりを、長閑な農村が取り囲んでいるような土地柄だ。

当然、今年のコロナウィルスの影響で、観光客は激減。市内で就業している人の大半は観光業に従事しているとあって、かなり厳しい状況になっているのは確か…

なのだが、不思議と街に悲壮感が漂わない。

もちろん、お土産物屋も観光客向けのレストラン街も閑古鳥。閉店や別の地域に移転するお店も続出。なのだが、観光客がいなくなった街には、気軽に開業できる屋台やバイクの洗車場が立ち並び(下手をすると、一晩で開業してしまう屋台もある。)、相変わらず軒先でビール片手に乾杯する男衆やコーヒー片手に何時間もおしゃべりする人々に出会う。

こうした社会状況の大きな変化とは別に、人々は逞しく軽やかに見える。(確かに生活も状況も大変ではあるのだが)

さらにさらに、我が家は子どもの送迎とお留守番のお供兼ついでにお掃除を近くに住むおばちゃんにお願いしている。このおばちゃん一家、普通に余裕がない、いつも「お金がないのに子どもたち(思春期真っただ中!)がおこづかいくれっていうの!」と私にぼやいているのだが、このおばちゃん、週1はごはんをおすそ分けしてくれる。いやいや、自分たちで食べるのに精一杯でしょ!と思いつつも、有難く頂くのだが。

このおばちゃん一家に限らず、いろんなところからこういった類のお話はわんさか、聞こえてくる。雨期に大洪水のあった地域へは、お金持ちのみならず、みんなできる限りで助け合う。托鉢の僧には余裕があればお金を、なければ炊いたご飯をパックしてあげる。(お米は驚くほど安いので。)

もちろん自分が困ったときは、有難く頂く。ただ、いざ、自分が贈る側に立つと、どう贈るか意外と考え込んでしまう。そんな間にも、近所から、大家さんから、知人から、軽やかな贈りものや贈りごとがやってくるのだ。

こんな風に、軽やかに、相手の生活になじむように贈る姿にあこがれて、今日もあれこれ考えこんでは、おずおずと差し出す日々を過ごしている。

とりとめのない、話になってしまったが、要は”贈る”ということがいかに楽しく人を繋げていくものだと、ここで暮らすことで実感している。

(40分)

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