Netflix制作 グレゴリー事件:迷宮入りの謎に迫る を観て
コレは、単なる犯人探しの謎解きの話では無い、と言うのを観続けて思い知らされる訳です。
此の事件を迷宮入りにした、混乱させた、混迷させたのは、犯人でも被害者でも“無能な捜査”的な御決まりの話でも無く、“無神経で我欲に溺れたマスメディアと報道“、ソレに扇動された・間に受けて手前を断罪者・探偵だと思い込んだ”正義(だと思い込んでる)の”世間・野次馬、だと本当に知らしめられる訳ですね。
そして、困った事に、コレ(因みに此の事件は1980年代の話だそうです)を観てると、”人間と言うのは、何時迄経っても全く本質は変わらぬモンなのだなァ…“と…。
勿論、そんな”世間“とやらに”当事者(主に被害者)“は真底”追い詰められて翻弄されて行く“訳です。
児童を殺された被害者の父親が、容疑者を殺害しなければ成らぬ程に、そして、其の後、コレも、児童を殺された被害者の妻が、何故か世間の憎悪や疑念(勝手に作り上げられた偏見を元に)を一身に浴びて容疑者扱いされ、何をしても(本当に”何をして“も、なんすよね。単なる日常のアレやコレやすらも)容疑者扱い、とか。で、或る時を境に、逆に持ち上げられたり何だり、とか…。
そして、ソレに”捜査する側“も混乱させられて行く、と…。
当事者(被害者・捜査側)は只管に、一方的に消費され、追い詰められ、傷付けられて憔悴して行く一方で、手前の好奇心(と、手前勝手な正義の暴走)の赴く儘に消費して追い詰める側(マスコミ・世間)は、無責任に、無慈悲に、コロリと、何の良心の呵責も無く、反省も無く、罪悪感すらも無く、”悲劇を玩具にして(正義の怒りと言う手前勝手な自己陶酔に酔い続けながら)、コレを(自分達の体感アトラクションの為の、一つの物語として)楽しみ消費し続けて行く”と言う、下手なホラーよりも恐ろしい姿を見せ続ける…。
此の構図は、残念ながら今も本当に全く変わって無いのが恐ろしい…。
そして、現代に於いても、最も簡単に魔女裁判が(マスコミやら世間やらが)勝手に始める、と言うのすら、当時と全く変わって無いと言うのも然りで、さ…。
そしてコレは記憶に新しいと言うか、ホンの、つい最近でも“山梨小学1年生女児行方不明事件”で“似た様な光景”が観られた訳ですよ。
勝手に周りが当事者や捜査関係者を無視して、母親を犯人扱いする、的なアレなんて、程度の違いは在れど、全く同じ本質な訳です。
そう言うのを、此のドキュメンタリーはホンマに死ぬ程に、観てる人間に、まざまざと思い知らされて仕舞う…。
そう言う意味では、コレは傑作だとオイラは思うし、マジでお前等、何度も観ろ、と言いたくも成る。
物凄いキッツイ話ですけどもね。
で、更に胸糞悪いのが、マスメディアも世間も“プチ判事”とやらに責任やら何やらを全て追っ被せてシレッと“逃げる“んですよね、手前のして来た事を全く棚に上げて…。
マスコミも野次馬も、手前は何の自戒も反省も無く、全て他人の所為にする…。
此の部分が、本当に今現在も、本質が微塵も、全く変わって無い、過去に学べてないんだなァ…と言う現実に、本当に怒りや哀しみ、絶望感が押し寄せて来るのが…ね…。
そう言うのも引っ括めて、是非とも皆さんに観て頂きたいと本当に思う…。
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