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本当は自分ではなくてもよかった。

本当は批評家として言葉を表さなくてもよかった。
本当は文筆家として言葉を紡がなくてもよかった。
本当はバーテンダーとして言葉を発しなくてもよかった。

でも「何か」を念頭に置いて生きてしまうということは、それすなわち別に何かをしなくてもよかった、必ずしも何もしなくてもそれでよいということではないのかもしれない。そしてその「何か」とは「希望」のことだ。

何もかもに対しての欲望も、心のうちに秘めていたはずの野望も、大切だったはずの対象に向けた熱望も、すべて乾いて萎れて枯れてしまった後にどれだけ再び水を注ごうとしても、もうそこに「何か」がなかったのだとすれば再び芽吹くことがないのは当然ではなかったか。
育みたい「何か」がないにもかかわらず、それに気づかず水を探しているのだとすれば、順序を取り違えているのではないか。そして、そうであるのだとしても、まずその育みたい「何か」だけを単独で見つけれるということでは、必ずしも、ない。
 

育みたい「何か」を種子とした場合、その種子が宿り芽吹くためには、適切な土壌と適度な天候の変化という恵み、つまり適度な環境と適切なタイミングや巡り合わせ、すなわちある種の時機・機運とも呼べる「縁」というものが必要条件なのではないかと、専門的な知見はなくとも察することができる。また逆も然りで、周りがいかに鼓舞したとしても、自らどれだけ水を探し求めたとしても、それだけでは十分ではない。なかったのだろう。

一方で、何が確かで不確かであるのかさえわからずとも、またある程度何かについて明瞭であってもまだ不明瞭であったとしても、可能な瞬間においてだけは自らの機微を常に観察すること。
他方で、存在するのかも存在しないのかもわからず、自らが精一杯紡ごうとする言葉が誰かにとってはいくばくかまだ不明なものであったとしても、得ることのできた機会においてだけは心血注いでみること。

そしてその内の一方はなんとかなっている時にもう一方が同時に揃っているということを狙うのだが、大概はそのどちらもどうにもなっていない。
しかしそれが実現せずとも、それを希むことができているということだけでも「希望」の内の「のぞみ」はもう既にここにあるのではないだろうか。そしてもう一方の、つまり「のぞみ」にさえ出逢うことができるのだとしたら、あとは、仲間という土壌の助けをかり、喜びという太陽や苦しみという雨で英気を養い、一気に芽吹き始めればいいだけだ。

そしてその「希望」を感じてしまう何かを胸に秘めて、頭に置いて、魂に宿して生きてしまうということは、本当は何もしなくてもよかったという所から、本当は何もしなくてもよかったにもかかわらず何かをすることを選択したという所に移ったことについて語るということでもある、のかもしれない。


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 仮にも「バーテンダー」なのだとすれば、こんなことを考えずに、こんなことに時間を使わずに、カクテルの1つでも考えることに時間を使えという向きがあるかもしれないが、それは順番が逆で、こんなことにすべてのリソースを注ぎ込むからこそ、その後にカクテルと呼べるかもしれない液体が生まれてくる、自分に場合には。

 既にカクテルと呼ばれ存在するものを再現するのはそれほど苦労するものではなく、また現状の自らの能力でカクテルと呼ばれ存在するものを再生産するのであっても難しいことではない。
しかし同じ「カクテル」という言葉を用いていたとしてもその内実が異なるのであって、自分が取り組んでいる「カクテル」とは、既に存在しているものを"単に"つくるというだけでもなければ、"ただ"引き継ぐだけでもない。一方でこれまで誰も見ることのできなかった異なる「液体」を提示し、他方で誰かがどこかで見たことのある「液体」を異なる次元で提示する、これこそがインターナショナルとオーセンティックのときに相反さえするそのどちらにも一定の期間たまたま身を置いた自分による「カクテル」であり、未だそれを実現している人物は管見の限り世界に存在しない。が、実行に移している人間はいる、そしてそれこそが、グローバル化前の特異的な「日本」でもなく、グローバル化後の変容を被った「日本」でもなく、自分が属する世代と生きる時代における「日本」の姿になり得る。もう始まっている。