ジュゴンと僕

小学生の頃。

父親は忙しかった。

夜中に家に帰ってきて、

朝はいびきをかいて寝ている。

僕と父のコミュニケーションといえば、

朝、学校に行く前に寝ている父に

カンチョーをするぐらいだ。

カンチョーをすると父が小さな声で、

「寝かせて。」「寝かせて。」と言う。

でも僕は、

「いってらっしゃい。」

と言うまでやめなかった。

しだいに父は、

カンチョーをすると反射的に

「いってらっしゃい。」

と言うようになった。

そんな父は、土曜日も、日曜日も、ほとんど寝ていた。

母からは

「あんたなんか、おってもおらんでも一緒やわ。

 ジュゴン飼ってるほうがまし。」

と言われていた。

その日から数ヶ月、

父は僕から「ジュゴン」と呼ばれることになった。

そんなある日、お風呂からあがると、

ジュゴンが起きていた。

机の上に紙を出して悩んでいる。

あのジュゴンが家で起きているなんて珍しい。

とりあえず僕もよこに座って紙を広げた。

ジュゴンの紙には、

GATSBYという名前が書かれていた。

僕もジュゴンと同じ場所にGATSBYと書く。

「これなんて読むん?」

「ギャツビー。」

「なんなんそれ。」

「ワックス。」

「ワックス?」

「髪の毛につけるとかっこよくなるねん。」

「ふーん。」

そこで僕はGATSBYの横に、

「かっこいいやつGATSBY」と書いた。

ジュゴンは、ちょっとだけ笑って

「ええやんそれ。」と言いながら自分の紙にも

「かっこいいやつGATSBY」と書いた。

僕はそれが嬉しくて他にも書いてみた。

「おいしいGATSBY」

「うれしいGATSBY」

母もやってきて、

「てるの方が向いてるんちゃう?」

と言いながら3人でいろいろ書いた。

「うんこGATSBY」

「ちんこGATSBY」

(小学生の頃の僕はうんことちんこがいちばんおもしろい言葉だと思っていた。)

こうなってくると、もう仕事どころではない。

ジュゴンは「はい、おわり。」と言って布団に入ってしまった。

その後も、横の布団で僕と母は「〇〇GATSBY」を言い続けた。

「おっぱいGATSBY」

「足の裏GATSBY」

「鼻毛GATSBY」

「耳毛GATSBY」

父は小さな声で「寝かせて。」と言いながら布団をかぶり、

その日以降、家では仕事をしなくなった。

でも僕はその日、気づいた。

父は、ゴキブリでも、ジュゴンでもなかった。

何かを考える人だった。


2019.09.10 TCCリレーコラムより
https://www.tcc.gr.jp/relay_column/id/%e3%82%b8%e3%83%a5%e3%82%b4%e3%83%b3%e3%81%a8%e5%83%95/


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